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2 「お迎え」

お迎えとは、文字通りこの世の人間の臨終時に迎えに来てくれる存在者(人霊、霊)のことです。

一切の恐怖心は必要ありません。

なぜなら、わざわざあなたの最後(死の時)を助け、迷わずなるべく安楽に他界への移行が出来るようにと、臨終(臨死)の時に来てくれるのですから、ありがとうと感謝すべき存在者なのです。

通常迎えに来てくれるということは、あなたという存在があちらの世界に歓迎され、あるいは少なくとも抵抗なく受け入れてもらえることの証しでもあるのです。

ただし、通常のいのちの寿命を迎えた時の話です(特殊な事情、たとえば自らその命(寿命)を縮めた場合、あるいはこの世に異常に執着する(心を縛られる)ものがあり、お迎えの存在者を自ら避けてしまう人、あるいはその魂(思念、精神)が霊性をまったく欠いており、その波長が物質的で低く、極度に地上物質執着的な人等はひとまず除きます)。

 

現世にいる人間は、いつか必ずその人生の最後(身体、肉体)の死(寿命)を迎えます。

それはこの自然界の摂理(法則)です。

その時、その人の意識(自分自身という個性を持った心)は肉体を残して(離れて)行きますが、通常現世の人には見えない身体(幽体、霊体)に成っているのです。

したがって、幽界は幽体で、霊界は霊体で、より上位の界はそれに見合った体で、この世と同じように(より現実的に)生きていられるのです、と言うより、死んで消えてしまおうとしても出来ないのです。霊魂(自分という意識する個人)としてのいのち(命)は永遠です。

あちら(霊界側)から見ればこの世(物質界)は、一時の物質的現象界(物質として現象して、物質としては消えてゆく世界)なのです。

 

死者の得た身体(幽体、霊体)はその時(死の時)突然作られるのではありません。

現世の人々は常に幽体(霊体)としても、それをその人なりに生涯(臨終の直前まで)育て上げ磨き上げつつ生きているのです。しかし通常それを意識する事は出来ません。

現世の人々は、霊界の中の特別な世界(物質現象界、この宇宙さえ人間には深い理解の及び得ない壮大な物質宇宙の地球上)に、物質の身体(肉眼、耳、鼻、舌、皮膚、脳等)を使って、その感覚(肉体感覚、顕在意識)でわかる範囲で生きているといえるのです。

ですから、この肉体で活動(生活)している限り、異次元(霊界、他界)の存在物は通常は見えず、聞こえず、香らず、味わえず、感じられず、意識できずに生きているのです。それはこの世に肉体で生きている限りは肉体の意識(顕在意識)が優先しているからです。しかし、人間の本質は霊(霊魂)ですから、時に霊的現象に会う人も多くいるのです。当然ですがその内容は正善から邪悪まで様々です。

幽霊(未熟霊や邪霊と言われる地縛霊、浮遊霊。あるいは臨死霊等)が出たと怖がるのであれば、自分自身をまず恐れなければなりません。彼らも人間だった霊魂の現れです。霊魂こそが真の自分自身なのです、彼らの置かれた(摂理上彼らが求めて得た)状態は明日の自分である可能性もあるのです。

お迎えに来てくれる霊魂は通常善霊(その範囲は広く様々)です。その中には様々な縁の善霊がいます。他界している場合の父母等現世の縁がある霊、霊界の霊的親和性がある霊、現世で守護霊、指導霊、補助霊等であった霊など様々です。あなたが現世で誠実な正しい生活を送り、出来る限りの課題や使命を果たすように努力して寿命を迎えると、多くの縁ある善霊の歓迎を受けることになるのです。

あなたが現世にての正しい心がけの生活により、やがて誰にも訪れる旅立ち(寿命)の日に、多くの善霊の歓迎を受けて、より美しい歓喜の世界へと勇躍参入される事を、私は願っています。

 

これらの事については、非科学的としてすべてを否定する、真の意味で無明(霊的無知)な科学者もおられますが、この宇宙内(自然界)で通常行われている、極々自然な科学的現象(自然の摂理)なのです。

ですから、知り合いの死の知らせを受けたというのは、よくある話ですし、「お迎えが来てくれた」と家人等に告げてから、この世を去る人も非常に多くいるのです。

なぜなら、通常意識をもっていのち(寿命)の最後を迎えつつある人は、自分の肉体と幽霊体とを交互に意識しつつ最後(完全離脱、死)に臨む事があるのです。

その時、霊眼で見たり、幽霊体で知り合いに知らせたり出来るのです。その死の瞬間まで、肉体と幽体(霊体)をつなぐ命の紐(シルバーコード、魂(玉)の緒、霊子線)は切れていないので自由に肉体にもどります、臨死の状態です。

あるいは、命の紐が切れ(死後)幽霊体となってから縁者や友人等に知らせる事になります。知らされた側の霊感の強い人は見えたり、聞こえたり、その知らせの何らかの印を得る事になるのです。

意識のしっかりした臨死の人には、通常の人が肉眼では見る事の出来ない存在者(お迎えの人霊等)を見たり(霊視)、それらの存在者と会話(意思の疎通)を交わしたり等、その他にも様々な現象が起こり得る状況であるのです。

したがって、特に意識のしっかりした死に逝く人の言葉は、最後まで誠実に聞き届ける事が、理(自然の摂理)に適った臨死(臨終)者に対する正しい対応です。

 

さらには、臨死の状態から様々な事情により回復(一時的、短期的、長期的等)する人もいます。いわゆる臨死体験者です。

それらの人々の誠実な体験談(真実の臨死体験)には貴重なものも多くみられます。

真実の体験談は霊的摂理(物的を含む、霊的自然法則)に従っていて、不思議なものでも怪しいものでもありません。

この臨死体験については、人に話したがらない体験者が多いのです。霊的出来事をこの世(物的世界)の言葉で正しく表現出来にくい事も理由の一つです。そして今のところは、そういう話を避けたり怪しむ事をせずに誠実に聞いてくれる人が少ない為でもあります。

臨死の体験を語ってくれる人が、「お迎えが来てくれた」と言った場合は、(通常)瞬間的か一時的(極々短期)の回復の後に移行(完全離脱、他界)します。寿命が来た為に移行するのを歓迎し援助してくれるのですから、素直な人(霊魂)はさほど苦しみを得ることなく抜け出ることが出来るのです。

 

寿命が来た時の人間の死は、人為的な計らいでは避ける事は出来ません。ですから、「お迎えが来てくれた」ということは本人(霊魂)にとっては実は喜ばしい事であって、歓迎すべき事であるのです。見送る側も、自分達の現世的寂しさ悲しさを乗り越えて、本人(霊魂)の穏やかな霊界への移行を優しい暖かな気持ちで見送ってあげる事が望まれます。

この世を、(おおむね)素直に、誠実に生きて来た本人(霊魂)にとっては、肉体(生老病死)からの解放の時であるのです。通常、寿命は本人に、極直前までは決して(霊的に)知らされません。お迎えの霊的存在者との出会いはその時であるのです。

寿命を迎えての死であったなら、それは、その年齢には関係なく真の肉体からの解放(この世からの卒業)の時であるのです。

したがって、他の人の死をいつまでも嘆き悲しみ続ける事は(その時の悲しみは私にもよく理解出来ますし、自然の感情として当然ではありますが)、残念ですが嘆き続ける事は、本人(霊魂)に対して、霊的世界での安定進化の為にはよい影響になるとは言えません。

真の愛情でつながった人(霊人)とは、通常は、必ず再会を果たす事が出来るのです。できる限り早く、涙を鎮め、本人(霊魂)の霊的世界での幸せ(冥福)を祈って(思って)あげる事が、最善の供養となるのです。

霊的摂理を知った人にはそれは可能であって、逝く人にも送る人にも精神的な大きな真実の救いとなります。しかし、いまだ霊的摂理を知らない(理解していない)人に、この対応をすべて無理に押し付ける事は出来ません。それは程度にもよりますが、かえって真の愛のない行為となってしまいかねません。

霊的摂理の理解はこれから社会にすみやかな広がりをみせて行くことと思われますが、現時点の状況下にあっては、あなたも相手の人を見て的確な対応や助言等をされますように、私は願っています。

 

真実の臨死体験から長期的、あるいは完全に回復した人は真の意味のお迎えには出会っていません。それらの人たちの中には体験中に何らかの霊的存在者に出会ったとしても、まだその時(移行、完全離脱の時)ではない事を告げられて帰還(回復)している人もいます。

その人はまだお迎えの時(寿命)ではないのですから、それが霊的摂理に適っています。

真実の臨死体験は夢を見たというようなものとは根本的(原理的)に違います。睡眠中における霊体の霊界等の訪問体験はその記憶が潜在意識に留まる為、たとえ顕在意識にある印象が及んでも夢以上の実在感を得る事は通常は難しい事であるのです。

真実の臨死体験はその言葉の通り、本人(霊魂)が実際に(自分自身の実体を意識したまま)肉体から抜け出て、自分の肉体を見たり知り合いの所に行ってきたり、さらにはこの世から次元を超えて境界域、中間域やさらには幽界、霊界等へと行ってきた実際の実体意識体験であるのです。

 

臨死体験の範囲は想像以上に広いのです。それらの体験内容は本人の霊的成長度や、その時の霊的状況等にもよりその印象度は異なりますが、質的に同質の霊的体験です。

この場合も命の紐が切れていない限り肉体に戻って来れるのです。この命の紐は次元を越える事も可能にします。この紐については物質(肉体)的、中間的、幽(幽質)的、霊(霊質)的性質を持っているという事が、それを可能にしているのです。肉体と幽体、霊体をつないでいるという事がそれを意味しています。物的、霊的法則に適った性質であるのです。

それらの真の体験者の多くは、ほとんどの人がただ一度の体験ではあっても、それを貴重な体験として死をそれほど恐れなくなったと語り、生きる事に大切な意味がある事をそれぞれに応じて感じ取って来ており、それを自覚して生きるようになったと語っているのです。

彼らのなかでは、より上位の界へと行って来た者ほど、この世との明らかな違い(この世では得られない程の居心地の良い快適感、爽快感、安心感、安楽感、言葉で説明出来ない程の美しさ等)を実体験しているため、誰に何と指摘、非難等されようとその考え(人生観)の揺らぐ事はないのです。

 

お迎えという存在者の向こうには、いのち(命、霊魂)の実在の世界があります。

その世界は知るほどに広く、深く、大きな世界です。たとえこの世の人間がその全生涯をかけても、探求しきれない程に壮大で、上位に進めば進むほどにより美しく、生き生きとした生命力と真の幸せと喜びに満ちた霊妙な世界です。

あちら側(霊的実在者)から見れば、この世の物質(肉体)のみに囚われて執着していて、霊的生命としてはほとんど意識せずに生きている人は霊的死者(この世に生まれてから霊的生命としては自由に生きていない、肉体感覚のみに閉じ込められた状態)とさえ見られます。

あなたはこの事象(お迎えという存在者)に対する興味から、いのち(命、霊魂)について、真剣に学ぶ機会を得る事もできます。

あるいは今はその気にならない事も自由です、すべてはあなた次第です。

実はその個人(個霊)にとっては、自由意志ほど大切なものはありません。あなたはその自由意志を用いて向上の道を歩むか、立ち止まるか、あるいは下降の道を歩むかの選択を常にしているのです。

 

個人(個霊)の自由意志こそが、あなたがこの世(物質界)に生まれた大切な存在理由の一つでもあるのです。

その自由意志は、あなたのいのち(命、霊魂)のためにあります。

さらに深い理解においては、その自由意志は、あなたのいのち(命、自意識)そのもの(現世的表現)とも言えます。

ですから、当然ですが、どちらの道を選ぶかはあなたの自由意志による事になります。

人は、上(最善)から下(最悪)までの可能性を持っているからこそ、個性ある個人(個霊)として存在していると言えるのです。

 

摂理としての自由意志は地上の人間(個人)に限りません、同時に個霊としてのあなたにも働いています。

霊的存在としての部分においては、その自由意志の働きが即刻瞬時に作用して、善でも悪でも本人の意志通りの方向へと向かうことになります。

霊的には即刻瞬時に周囲や人々に(相応の)霊的影響(霊的波動、霊的パワー)を与え、自身にも(相応の)反響が返ってくる事になります。

その選択(物的、霊的影響)の範囲は、あなたの現在の霊的成長度の範囲を出る事はありませんが、自由意志としてその範囲の中で可能な選択をしているのです。

 

その自由意志での個人(個霊、あなた自身)としての霊的成長が、あなたを真の幸せ(喜び)へと向かわせるのです。

あなたがその自由意志で思い、話し、行動する時には、あなたの心の中にある理性と良心を大切に用いて下さい。

なぜなら、あなたの理性と良心が正常な正しい状態にある場合は摂理に適った正しい方向を知っているからです。ですから、人間は常に正しい心の状態が望まれるのです。

常に正しい方向に向かう為にも、あなたがいのち(命、霊魂、あなた自身)の霊性向上の道を歩まれる事を、私は願っています。

 

霊性向上の為には、霊的摂理を知る事それに適った正しい行い(生活実践)をすることが大切です。真のあなたは永遠の霊的存在者であるのです。

あなたのこの世(物質界)での数十年〜百何年の期間の生き方(思い、言葉、行為)が、永遠という限りない命(魂、人霊、霊的存在者)のあなたを作り上げる(磨き上げる)と共に、ひとまずあなたが(今回)向かう方向を決める事になります。

その意味ではこの世の命は大切なかけがえのないものです。

人間のこの世のいのち(寿命)は誰にとっても明日をも知れないという現実があります。

通常、自分自身の寿命を知る事は(他界直前まで)困難です。だからこそ、今(現在)を一生懸命に生きて行けるのです。

大切な今(現在)という機会(機縁)を逃さないで下さい。

 

現代科学や医学は延命に偏って、人間が崇高な最後(寿命、自然的死)を迎えるための尊厳死の支えに成り切っていない現実があります。

この世の人間は必ず最後(死)を迎えます。

その時に残された人々にとっての大きな悲しみは理解できます。

しかし、真の愛がある人とは永遠の別れはありません。たとえ行く先(境涯や界等)が違ったとしても会える可能性は十分にあるのです。

 

この世の人間としての死(寿命)は(通常)変えることの出来ない摂理(物的、霊的自然界の法則)です。

死に逝く人にとっては、この世の生活体験の最後の大切な瞬間です。

そして、お迎えの存在者達との出会いは、幽界、霊界等での新たな生活へ向けての旅立ちの瞬間でもあるのです。

そのより自然な移行(旅立ち)の為にも、この世に残る人々は、出来る限りの尊厳をもって臨死(臨終)者を優しく暖かく、思いやりをもって送り出す事が望まれます。

 

「お迎え」 この言葉が、あなたの大切ないのち(命)研究の機会(チャンス)となりますように、私は願っています。

 

永遠のいのち(命)と愛と知恵と力の源(創造主)の摂理(この宇宙の自然法則)が正しく啓示され、その真実(真理)の光(輝き)が、あなたの大切ないのち(命)まで届きますように。愛と喜びの心で感謝を捧げます。ありがとうございます。


3 「宗教、宗派」

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