k-styleの良寛の言葉(詩歌、愛語、信仰) 前編 


こちらでは、おおくの人々に良寛さんとよばれ親しまれている、その人の言葉をとおして、その生涯と思想 (親しみやすさと優しい心、思いやりに満ちたあたたかな人間性、大切なその信仰) を見てゆくこととします。


1

我が生(しょう) 何処(いずこ)より来たる 去って 何処にか行く

「我が命はどこから(何の為にこの世に生まれて)来たのか。(何の為に生きているのか。そして、やがて)去ってどこに行くのか」

常に無一物で生きた良寛は、その慈愛を思わず落とす涙でしか表せない時も多かったのです。この世に生きている間その慈愛の心を持ち続けた(真の信仰の)人でした。

良寛は自然を、人を、特に純真で素朴な子供たちを愛しました。同時に自分に害を加えようとする人や盗人さえも愛しました。

美しい花々や庵(いおり)の小道の雑草を、小動物、鳥、昆虫を愛しました。さらに、その慈愛は生命あるものすべてに及びました。

良寛は多くの漢詩、和歌、俳句、愛語、戒語、遺墨(いぼく、書)等を残していますが(現代に伝わることなく失われたものはその何倍にもなるでしょう)、こちらに紹介できるのはその残されたものの一部です。

それら残されたものの中には、同じ題でも多少言葉の異なるもの等が見られますが、表記は一点とします。また彼の伝記については様々な資料が錯綜(さくそう)し、事実として確証できるのは入寂(にゅうじゃく、他界)の年月日だけであろうとさえ言われています。その年は1831年、天保2年1月6日ですが、その時の年齢については73歳、74歳(通説)、75歳、またその他の年齢説もあります。

良寛は1758年(通説)、宝暦8年、越後の国(現新潟県)出雲崎、橘屋(名主)の長男(跡継ぎ)として生まれ、育ちました。

良寛は並外れて素直な、疑いを知らない少年でした。それを象徴するような逸話が伝わっています。

良寛が七歳前後の頃、父親に叱られた時、顔を伏せながら上目づかいに父親を見上げました。父親は「父や母をにらむ者は鰈(カレイ)になってしまうぞ(越後地方の言い伝え)」と言って叱りました。

その後、良寛は家を出たまま夕方になっても帰ってきません。家中の者が探し回ったところ、良寛は海岸の波に洗われる岩場の上で発見されました。

家人が「そんなところで何をしているのか」と聞くと、良寛は「僕はまだカレイになっていないけど、いつカレイなってしまうのだろう」のように答えたと伝わっています。

この逸話は極端なほど嘘がつけず、他の人も嘘はつかないと信じる良寛をよく表していると言えるでしょう。

人の言葉を信じ、疑うことが出来ない良寛は生涯その子供の時の素直さを持ち続けていたのです。

そこにこそ良寛という人の、人柄、やさしい心があります。たとえ自分がだまされ傷つくことがあっても、どこまでも人に対して誠実で真実をつくそうとする、善意の人であった良寛が生涯持ち続けた、そのあたたかな人間性が秘められているのです。



2

良寛は、少青年期には経済的に恵まれた環境にあり、大森子陽の狭川(きょうせん)塾において儒学等を学びながら、父親の遠い親戚筋にあたる酒造業の中村家に寄宿していました。生家をはなれて自由な少、青年期を過ごしていたのです。

ひとたび思う少年の時 書を読みて空堂に在り

燈火(とうか) 数(しば)しば油を添う

未(いま)だ冬夜(とうや)の長きを厭(いと)わず

良寛は、同じ年ごろの若者たちと遊ぶ時間も惜しんで、多くの書物を読んだといわれます。同時に、一時期は放蕩(ほうとう)息子でもあったという伝承もあります。生家にもどり名主見習として暮らしている時(通説では18歳頃)家を出て出奔(しゅっぽん)各地を放浪(説あり)後、寺(光照寺)に入りました(自他共に正式とはしない、仮の出家説あり)。

この出奔前後の良寛については、さまざまな伝承(説)があり多くの研究がされています。それらの説のなかには、

名主見習としての良寛が、役人と庶民との争いの仲裁をしようとしたが、正直過ぎるほどに互いの言うこと(主張や相手への非難)を伝えてしまい、仲裁は失敗し、良寛はその社会的立場(役目)に自分の性格がまったく合わない事を痛感、やがて出奔説、

名主見習として罪人の処刑に立ち会わされた良寛が、そのような罪があるとは思えない人の、その処刑を目の当たりにした直後の出奔、剃髪(ていはつ)説、

放蕩(遊郭等)の限りを尽くしたすえの出奔、剃髪説、

良寛の妻帯と両家間を含めた複雑な事情からの事実上の離別 (離別後に生まれた早世の女子説あり) 後の出奔説、

父との確執を生んだ良寛の生い立ちの真相説等、

どれもある種(ある程度)の推測根拠をもっていて、全面的に否定し去る事は出来ません。これらの出来事あるいはこれに類した事柄が良寛の身に起こった可能性はあります。しかし、今のところ伝承を越える事実と断定まではできません。したがって、こちらでは詳細の記述は控えます。

18歳前後の出奔から、光照寺入り、剃髪(出家)と円通寺入り(22歳、正式な出家)までの4年間の内、放浪(一時東方への旅説あり)の期間がどの位あったのか定かではありませんが、良寛が多感な青年期に、この世の無常を実感したであろうことが思われます。

      (良寛漢詩読み下し文)

尋思(じんし)す少年の日を 知らず吁嗟(うさ)あるを

好んで黄鵝(こうが)の衫(さん)を着て

能く白鼻の騮(りゅう)に騎(の)る

朝(あした)に新豊(しんぽう)の酒を買い

暮(くれ)に可陽(かよう)の花を看(み)る

帰り来るも 何処(いずこ)かを知る

直ちに指さす 莫愁(ばくしゅう)の家

 

「少年(現 青年)の頃を思い返すと、世の中に憂さ(悲哀)のあることを知らなかった。

好んで高価な着物を身に着けて、

よく鼻白の栗毛馬に乗った。

朝に(昼前から)遊郭(ゆうかく)の街で酒を買い、

暮に(暮れ方まで)近郊の花を看るなどして遊び回った。

どこに帰るのかといえば、

直ちに指さすのは 遊女(ゆうじょ)の居る家(娼家)である」


故郷を出(い)でてより後(のち)

東方 諸国を行く

毎日 佳境(かきょう)を過ぐるも

才(さい)短くして 詩成らず

 

「故郷を出てから後、東方の諸国を放浪(旅)している。毎日、景色に勝れた地を過ぎるが、才能が足りないので、よい詩を作ることが出来ない」


遁世(とんせい)の際(きわ)(世を捨てようとした際)

波の音聞かじと山へ入りぬれば また色変へて 松風の音

生家を離れ(波の音を聞くまいと決めた)東国(山の中)で、松風の音がまるで波の音のように(なつかしく)聞こえる


少年捨父走他国 辛苦画虎猫不成

有人若問箇中意 箇是従来栄蔵生

 

「少年 父を捨てて他国に走り(逃走)

辛苦(しんく)虎を画(えが)くとして(逃げ出した結果)猫にも成らず

人ありて もし箇中(こちゅう、真実)の意(い、意思、精神)を問わば

箇は是(こ)れ従来の栄蔵生(生まれたままの栄蔵(良寛)である、逃げ出した時(元)のままの自分を見るのみ)



3

良寛の漢詩や和歌、俳句等が、そのまますべて事実を表しているとする事は出来ません。しかし、架空のものから創作されたとする事の方が無理があります。良寛には創作のために作ったと思われる作品は、ほとんど見当たらないのです。

良寛は自分の心境を表現するために、先人の言葉をそのまま使うこともありましたが、それらの言葉も良寛の思いを表す良寛自身の言葉と見ることが出来ます。

良寛の嫌ったものは、書家の書、歌詠みの歌、又題を出して歌詠みをする、と良寛奇話第二十五段にあります。良寛自身は、書の為の書を書いたり、歌の為の歌を詠んだり、題を出して歌を創作したりすることを嫌っていました。

良寛の書や歌の才能は、書の為の書や歌の為の歌には発揮されなかったのです。良寛には、そのような事は出来なかったのです。

それは良寛が修行の為の修行、仏道の為の仏道を離れ、その生活そのものが良寛の修行であり仏道になっていったことにも通じるのです。

彼の多くの作品を見てゆくことによって、良寛が愚かと思われるほどに素直で、正直な人であったことが分かるでしょう。それが他の人のことであっても、自分のことであっても、多くの作品が彼の心を正直に表しており、良寛の作品はすべてが、彼の生活の一部として(真実の思いを含んだ作品として)生まれたものと言えるでしょう。それが、今日でも読む人々に多くの感動をよんでいるのです。

たとえば、上記の漢詩においては、中国の町の名や遊女の名を使ってはいますが、当時の出雲崎近辺には遊郭もあり、遊女が住む娼家もあったのです。良寛の少青年期頃の橘家(名主)は、裕福であり、子供に高価な服を買い与え、馬も所有していたことも十分考えられるのです(橘家はやがて、良寛の弟(由之)の代で名主としては事実上消滅)。したがって、当時、青年であった良寛がこの詩に近い体験をしていても不思議な事ではないのです。

良寛の出奔、出家(剃髪)には、その心の奥に刻まれたなにか深い理由があったことが思われます。後に良寛が出家(親の許しも得た正式な形で)の時の自分の心を詠んだ長詩があります。

うつせみは 常なきものと むら肝の 心に思(も)ひて 家を出で  親族(うから)を離れ 浮雲の 空のまにまに 行水(ゆくみず)の 行方も知らず 草枕 

旅行くときに たらちねの 母に別れを 告げたれば 今はこの世の 名残とや 思いましけむ 涙ぐみ 手に手をとりて 我が面を つくづくと見し 面影は なお目の前に あるごとし

父に暇(いとま)を 乞いければ 父が語らう 世を捨てし 捨てがいなしと 世の人に 言はるるなゆめと 言いしこと 今も聞くごと 思ほえぬ

母が心の 睦まじき その睦まじき 御心を 放(ほふ)らすまじと 思ひつど 常憐れみの こころ持し 浮き世の人に 向かいつれ

父が言葉の厳(いつく)しき この厳しき 御言葉を 思い出でては 束の間も 法の教えを 腐(くさ)さじと 朝な夕なに 戒めつ 

これの二つを父母(ちちはは)が 形見となさむ 我が命 この世の中に あらん限りは 

良寛自身が、その家を出た時には、この世の無常を思う心があったと言っています。さらには行方も知らずと詠っていますから、最初の家を出た(出奔)時の心境をも重なる様に表現されているでしょう。

旅行くときにからは、正式な出家を果たした別れの時を詠っているでしょう。母親が涙ぐみ手を取って、良寛の顔をつくづくと見ていたその母の面影を慕い、父親の、「世を捨てるのであるなら、捨てがいがないと言われないように」との厳しい言葉を、今も思っている、と記しています。

母の心のような憐れみをもって、世の人々に向かい、父の言葉のような厳しさを持って、法の教えに従っていこうと自分を戒めているとあります。

( 良寛は、生地を離れている時、円通寺修行時代(26歳頃)に母を、諸国行脚時代(38歳頃)に父をなくしています。 )

事実として良寛は、世を捨て、家を捨て、家族と別れ出家を果たしました。なによりも良寛には強い仏縁があったのです。



4

22歳(通説)のときからは円通寺(岡山県)において国仙和尚について修行(仏道、禅宗)生活を始めました。(生地である越後から、当時としては遠く離れた円通寺入りは、仏道修行(出家)への良寛の真剣な心(覚悟)が感じられます。)

自ら望んだこととはいえ、良寛は厳しい修行に進んで精進し、他の僧の気の緩みを嘆くほどの、妥協を許さない修行者となっていきました。この円通寺での禅宗修行が、後に生涯無一物をつらぬいた良寛の、仏道生活の原点と言えるでしょう。

円通寺に 来たりてより

幾度か 冬春(とうしゅん)を経たる

門前 千家の邑(ゆう)

更に 一人をも知らず

衣垢(えあか)づけば 手自ら洗い

食尽くれば 城闉(じょういん)に出ず

かつて 高僧伝を読むに

僧可(そうか)は 清貧を可とす

これは良寛が円通寺当時を想って作ったものですが、円通寺に入ってから何年かが経ち、門前には多くの家があるが、ただの一人も知らないとうたい、その修行への徹底ぶりがうかがわれます。

この当時から良寛がこの世の名誉や財(僧侶としても含めて)を求めることなく、真の仏道修行者、清貧の僧へと向かう下地ができていったことを示しています。

しかし、当時の良寛は学問としての仏道に熱心に打ち込み修行していたが、真の求道者がどのようなものか、しっかりとはつかめていなかったことを良寛自身が後に詩にうたっています。

仙桂和尚は 真の道者

貌(ぼう)は古にして 言は朴(ぼく)なるの客

三十年 国仙(こくせん)の会(え)に在りて

参禅せず 読経せず

宗門の一句すら いわず

菜園を作って 大衆に供す

当事 我之を見れども見えず

之に遭(あ)い 之に遭えども遭わず

ああ 今之にならわんとするも得可からず

仙桂和尚は 真の道者

円通寺を離れて後、良寛は仙桂和尚の死の報せを(風の便りに)聞いたとき、仙桂和尚は真の道者(仏道修行者)であったと詠んでいます。

仙桂和尚は、円通寺において典座(てんぞ)をしていました。他の修行者に食べさせる事を主な仕事としていたのです。

容貌は古に見え、言葉は少なく飾らず、ゆっくりと話すような人、三十年国仙和尚のもとにあっても、座禅もしない、経も読まない、宗門で教わる一句さえ言わない、野菜を作っては他の修行者に食べさせていた。

当事、私は彼を見ていたが、真には見えていなかった。彼に遭っていたが、真の意味では遭っていなかった。ああ、今になって、彼に見習おうとしても、それは得られない。仙桂和尚こそが真の道者であった。

この詩は、仏教者としての良寛を知る上で大切なものを含んでいます。良寛は晩年に近づくほど、その信仰を深め、自分のものとしていきました。

この詩は、良寛の得た真の仏道をよく表しています。

仏道とは、難しい学問や特別の修行やこの世の人々の作り出した分別(価値基準)に、強くこだわる(執着する)必要はないのです。日常の普通の出来事(小さな事と思われるようなこと)をおろそかにせず淡々と正直に続ける事の中にも大切な道があることが、この良寛の詩に表現されているのです。


良寛は十数年円通寺での修行を続けました。その円通寺修行時代に、ある時は師や法友と共に、また時には独自に行脚修行を行いました。

下記の詩には、生きることに悩み苦しんでいた(ある時期の)乞食行脚の途上に、有識(うしき、知)の人に会い法を聞き、去ってから後に自身の内の宝(仏性)を見た。それからは自身の仏性に従って行動し、いたる所を自由に歩き回っている、とあります。

記得(きとく)す壮年の時 生(せい)を資(たす)くること大(はなは)だ艱難(かんなん)なりしを

唯(ただ)衣食の為の故(ゆえ)に 貧しい里を空しく往還(おうかん)す

路(みち、途上)に有識(うしき)の人に逢い 苦(ねんご)ろに旧時の縁(えん)を説く

却(しりぞ)いて衣内の宝を見る 今において現に前に在り

これに従って自ら貿易(ぼうえき)し 至る処(ところ)恣(ほしいまま)に周旋(しゅうせん)す

良寛が、行脚修行中(時期については諸説あり)に法話問答を得た師の一人に宗龍がいます。宗龍は一時期には越後紫雲観音院庵主となり、また生涯の常乞食僧を心がけた禅僧です。

宗龍については、良寛亡き後、良寛最晩年の法弟であった貞心尼が、師(良寛)から聞いた話を手紙に残しています。

「宗龍禅師のこと、実に知識に相違なきことは、良寛禅師の御話に承(うけたまわ)り候(そうろう)。

師そのかみ行脚の時分、宗龍禅師の道徳高く聞えければ、どうぞ一度相見(そうけん)いたしたく思ひ、その寺に一度掛塔(かた、行脚途上投宿修行)いたし居(お)り候へど、禅師今は隠居し給ひて、別所(べっしょ)に居まして容易に人に目見(まみ)え給はず。

みだりに行くことかなはねば、その侍僧(じそう、付き人役の僧)に付いて取次を頼み給へど、はかばかしく取次ぎくれず、いたづらに日を過ごし、かくはせっかく来(きた)りしかひ(甲斐)もなし、しょせん人伝(ひとづて)にては埒(らち)明かず、直(じき、直接)に願ひ参らせむと、その趣き書きしたため、ある夜深更(しんこう)に忍び出で、隠寮(いんりょう、宗龍禅師の住まい)の裏の方(かた)へまわり見るに、高塀にて越ゆべくも見えず。

こは如何(いかが)せむと見めぐり給ふに、庭の松が枝、塀のこなたへ差し出(い)でたるあり。

これ幸ひと、それに取り付き、やうやう(ようよう)塀を越え庭の内に入りたれど、雨戸かたく閉ざして入ることならず。

これまで来りて空(むな)しく帰(かへ)らむも残念なり、如何(いかが)せむと、暫(しば)し立ち休(やす)らひ、ここかしこ見渡し給ふに、雨戸の外に手水鉢(ちょうずばち)のありければ、これこそ良き所なれ、夜明かば、必ず手水(ちょうず)し給はむ、そのとき御目にあたるようにと、手水鉢の蓋(ふた)の上に文書物(ふみかきもの)を乗せ置き、塀のもとまで行き給ひしが、ふと心づき、もし風の吹なば立ち失せむも知れずと、また立ち戻り、石を拾ひてその上に乗せ置き、辛(かろ)うじて、やうやう立ち帰る。

とかうするほどに、はや朝の行事はじまり、普門品(ふもんぼん、観音菩薩普門品)なかば読むころ、隠寮の廊下の方(かた)より提灯(ちょうちん)てらして客殿の方へ来る僧あり。

人々いぶかり、何事のありて今時分来るならむと見居(みい)たるに、良寛と申す僧あるよし、只今来るべしと、御使ひに参りたりと言ふに、皆驚き怪しみけれど、我は嬉しく、早速(さっそく)参り、相見(そうけん)いたしけるに、今よりは案内に及ばず、いつにても勝手次第(自由)に来るべしとありければ、それよりたびたび参り、法話いたせしとの御物語。

そのときの問答のこと、問ひ聞かざりしことの、いまさら残念至極に存じ参らせ候。

されど、(宗龍禅師)は、実に有難き知識なればこそ、師(良寛)のその志を憐れみ、一刻も差し置かず、夜の明くるも待たで迎ひを遣(つか)はされし御親切、道愛の深きこと聞くだに(聞いただけでも)涙こぼれ侍(はべ)りぬ。 以下略」

良寛がその最晩年において、法弟である貞心尼に対して、宗龍との出会いの様子を非常に詳しく語ったということは、自分(良寛)もその時の印象を生涯忘れていなかったことを示しています。

したがって、この時に良寛は宗龍によって仏道の深い境地に触れる何かを触発感化(しょくはつかんか)された可能性があります。

しかし、貞心尼の言葉には、その時の師(良寛)と宗龍禅師の法話問答(内容)を問い聞かなかったことを、今となっては非常に残念に思っているとあります。

宗龍禅師が師(良寛)の志に深く感じて、一刻の間も置かずに夜の明けるのも待たずに遣(つか)いの者を向かわせてくれたことに、その仏道慈愛の深きことに、貞心尼は師(良寛)の話を聞いているだけで涙がこぼれました、と記しています。



5

良寛の禅道の師国仙は、自身の亡くなる一年程前(良寛33歳前後)に良寛に対して、印可の偈を与えています。その偈(詩)を良寛は生涯手元に置いたといわれます。

良寛庵主に附す

   良や 愚の如く 道 転(うた)た寛(ひろ)し、

  騰々(とうとう)任運(にんうん) 誰を得てか看(み)せしめん。

  為(ため)に附(ふ)す 山形の爛藤(らんとう)の杖、

  到る処(ところ) 壁間(へきかん)に午睡(ごすい) 閑(しず)かならん。

   (水月老衲仙大忍)

   良寛に与える、良寛は(たとえ人に知られずとも)いかにも愚のごとく(愚に似て非なる)に、この道を歩んで行くのが良い。その道は歩めば歩むほどに、この広々とした雄大な大地に長く遠く続く。  

ゆったりとしていて、天の運行に従いゆく、良寛のその優れた本体を、いったい誰が看てとることが出来るだろう(誰か真に解する人がいるだろうか)。  

その優れた本体のために、今、行脚のためのこの藤の杖を与える。  その人生、到る所に居場所があり、禅道の道もある。 

また、その道にこだわらなければ、その道の向こう側にさえも居場所がある。そこで、昼寝でもしてみるがよい。静寂の中に良寛を迎えるもの(真の境地)がきっと待っている。

 

良寛は34歳頃に円通寺を出て40歳前後まで諸国行脚をします。

この時期の良寛は記録(作品等)をほとんど残していません(諸国において書いたものなどの多くは、後世まで残す人も無く、やがて失われてしまったと言えるでしょう)。したがって、どのような生活であったのかよくわかっていないのです。

当時の良寛を今に伝えている書物に「寝覚めの友」近藤万丈(著)があります。この本の中での良寛についての記述は、様々な研究がされた結果、今では、ほぼ事実であろうと考えられるようになりました。

研究の詳細はここでは控えますが、万丈が円通寺のある玉島の出身であること、万丈が若くして江戸(東京)に出る前に、目の前にある瀬戸内海を渡って四国の旅をした時期(青年期)と、良寛が円通寺を出て各地行脚(四国や九州説あり)を行っていたであろう時期が一致する、等がわかってきているのです。

以下は良寛に関する部分のおおすじを現代語要約したものです。

「近年、橘 茂世の「北越奇談」に了寛は越後の国の橘何某という豪家(ごうけ)の太郎子(長男)なり、と載っていた。三十年も前のことだが、私は四国の土佐で、越後出身の了寛という僧に会った。

私は旅の途中はげしい雨にあい、日も暮れてきて、城下からも離れていて付近には民家も宿もなく困っている時に、一軒のこわれかけた粗末な小屋を見つけた、中に顔色が青白く面立ちの痩(や)せた僧が、一人炉の前にいたので雨宿りを乞う(願う)と、宿といっても、ろくに食べるものも無く風を防ぐふすまも無いがと言う。

私は雨さえ凌(しの)げれば何もいらないからと言って、多少強引に、一夜の宿をかりることにした。

私たちは、夜が更けるまで相対して炉を囲んでいたが、この僧、最初の一言のあとは一切口をきかず、座禅することもなく、眠るでもなく、口に念仏唱えるでもなく、こちらがどのような事を話してもただ微笑むだけであった。そのため一時はこの人は狂人ではないかと思った。夜となり炉辺でそのまま横になって寝入ってしまったが、朝になるとその僧も同じく横になり手枕して炉辺に寝ていた。

翌日も、雨はやむことなく昨夜より強く降り続いていた。私が「せめて小雨となるまで、宿をかしてほしい」と乞うと、「いつまでも、どうぞ」と言ってくれたのは、昨日宿をかりた時よりもうれしかった。その日、麦の粉の湯水にとかした物をすすめてくれた。

その小屋の中は、木の仏像が一つ立っていた。さらに、小さな机がわりの台と二冊の本以外は、何一つ無いに等しかった。その本は何かと見てみると荘子であった。

その中に、この僧の作と思われる古詩を草書で書いたものがはさんであった。当時、古詩や歌を習ったことも無かったので、詩の良し悪しはわからなかったが、その草書は見事な字でただただ驚いてしまった。

そこで、私の持ち物の中から、扇二つを取り出して何か賛(さん)を書いてほしいと願うと、すぐに書いてくれた。一つは梅にうぐいすの絵、もう一つは富士の峰の絵であった。今はもう、その賛は忘れてしまったけれど、富士の絵の賛の末に「かく言う者はだれぞ、越州の産、了寛書す」とあったのを覚えている。

その日の夕暮れになっても、雨はなお同じように降り続いていたので、その夜も昨日のように僧と共に炉のそばに寝た。

明けて翌朝は、雨が上がっていて日の光が輝いていた。例の麦の粉をごちそうになり、二晩の宿のお礼にと少しのお金を置こうとしたが、「そのような物を何とも用せず(必要もない)」と断られた。そのままでは私の引っ込みがつかないので、それならこの書き付け用の紙をと差し出すと、それはよろこんで受け取ってくれた。

 

これは万丈が、当時三十年前を思い出して書いたものです。そこには各地行脚に出て、自分を厳しく見つめていたであろう良寛の姿が、今、目の前にいるかのように、鮮やかにえがかれています。

そこにいるのは行脚修行(沈黙の内に自己をみつめる生活)途上の良寛です。粗末な小屋(庵)に無一物で生き(生死の境に生き)、ほとんど口もきかず(自己にきびしく)、人には憐れみをもって接し、雨宿りを乞う行きずりの旅人に、食べ物(唯一乞食(こつじき)によって得た物)を与えているのです。

良寛の、この時期の諸国行脚は、このような厳しい状況において続けられたのでしょう。

一度(ひとたび)家を出(いで)しより 運に任(まか)せて日子(にっし、月日)を消す(過ごす)

昨日は青山に住み 今朝は城市にあそぶ 

衲衣(のうい、着る物)は百余結(ひゃくよけつ、無数の縫い合わせ)にして 一鉢(いっぱつ、ただ一つの托鉢用の鉢)は 幾戴(いくさい、無数に使い続け)なるを知るや

錫(しゃく、)に倚(よ)って清夜に吟じ(ぎんじ、歌を詠み) 席(むしろ)を鋪(し)いて 日の裡(ひのうち、昼間)から睡(ねむ)る

誰か道(い)う (だれかが言っている) 数に入(い)らずと (一人前には数えられないと) これが余(わが)身 即(すなわ)ち是(これ)なり

 



6

「余(よ)将(まさ)に 郷(きょう)に還(かえ)らむとし 伊東悲駕波(いとひがわ)に至りて 不預(ふよ)客舎に寓居して雨を聞き 悽然(せいぜん)として作有り」

一衣一鉢裁随身 強扶病身坐焼香

一夜粛々幽窓雨 惹得廿年逆旅情

「ふるさとに帰ろうとして、糸魚川に着いたが、病気にかかってしまい人の家に世話になった。そこで雨の音を聞きながら、心中深く感じるところがあり詩を作った」

一衣と一鉢(僧)の身であるが、病にかかってしまい、今やっと起きて香をたき坐っている。

夜がふけても、雨は窓の外に降り続いている。

この二十年の旅の情けを様々に、次々と思い出しては、今、しみじみと味わっている。

 

良寛は故郷をはなれて玉島、円通寺入りしてからは(一時的帰郷等を除くと)約20年の後、40歳頃に越後に戻っています。

たらちねの 母がかたみと朝夕に 佐渡の島べをうちみつるかも  [佐渡(良寛の母の生まれた地)]

朝霧に一段ひくし合歓(ねむ)の花(以南、良寛の父が合歓木(ねむのき)の花を読んだ句) 良寛が終生身から離さなかったといわれる、その句を書いた書き物の余白に書かれていた良寛の歌

水茎(みずくき、書 文字)のあとも涙にかすみけり ありし昔のことを思ひて

良寛は亡き父母に対しても、生涯尊敬と慈愛を持ちつづけたのです。

 

世の中に何が苦しと人問はば 御法(みのり、仏法、真理の法)を知らぬ人と答えよ

良寛が求め続けたものは、世間一般の評価や価値基準とは離れたところにありました。したがって、世間の人々が強く求めるものに無頓着(執着しない)であったり、人々が軽んずることを、大切にしたりと、世間的には奇異に見えることも多かったのです。

我世間の人を見るに 総(すべ)て愛欲の為にはかる

之を求めて得ざることがあれば 心身更に憂愁(ゆうしゅう、憂い哀しむ)す

縦(たと)えその欲する所を恣(ほしいまま)にしても 終(つい)に是(これ)能(よ)く幾秋(いくしゅう、何年)ぞ

一度(ひとたび)天堂(てんどう、仏教上の天)の楽を受けて 十度地獄の囚となる

苦を以って苦を捨てんと欲して 之に因(よ)って長く綢繆(ちゅうびゅう、もがき苦しむ)す

譬(たと)えば清秋の夜に 月華中流(月影が川の流れの中)に浮かぶ

獼猴(びこう、)が之を探らんと欲して 相率(あいひき)いて水中に投ずるが如し

苦しい哉 三界(さんがい、一切衆生の輪廻の世界。欲界、色界、無色界(過去、現在、未来に通じる現象界))の子(し、流れさ迷っている人々) 何れの日か 休(きゅう、苦の輪廻が終わる)せんことを知らず

遥夜(ようや、長い秋の夜)孰(つらつら)思惟(しい、しゆい)し 涙下りて 収むること能(あた)わず

   

そのような世間の中で、良寛は生涯を通して清貧(無一物)の人、信仰(仏道修行)の人、だれにも優しく暖かい心の人、であり続けました。

襤褸(らんる) また襤褸

襤褸 これ生涯

食は わずかに路辺に取り

家は じつに蒿莱(こうらい)に委(ゆだ)ぬ

月を看(み)て 終夜(しゅうや)嘯(うそぶ)き

花に迷うて ここに帰らず

ひとたび 保社(ほしゃ)を出でてより

あやまって この駑胎(どたい)となる

 

「ぼろの衣、また ぼろ ぼろぼろ これ我が生涯

食は道々の乞食で食いつなぎ

家は 蓬(よもぎ)が生える家

月の夜は 一晩中 詩歌や句を作って過ごし

花の美しさに見とれては 家に帰るのも忘れる

寺社(円通寺)を出てから このような姿

どう言い訳も出来ない(あえて、その真相(真実)を説き明かすことも出来ない、これが我が生涯)」

 良寛の心境が語られています。

世間一般に認められる高僧や名僧には見向きもしない(今の自分には財も地位も名誉も無い)、自分の信仰はここに向かい、ここにある。

このとおり、見た目には、ぼろぼろのみじめな姿である。(しかし、その心の内に真実がある、これこそが我が生涯である)

かといって、良寛は世間の人々の生活から目をそらして生きるようなことはなかったのです。良寛在世の当時、風水害や旱魃(かんばつ)等が多発、民とくに農民(百姓)は厳しい生活を強いられることも度々でした。

我さへも 心もとなし小山田の 山田の苗のしほるる見れば

久方の雨も降らなむ あしひきの 山田の苗の隠るるまでに

江戸末期は、生活に窮した農民(百姓)等の打ちこわしや一揆(いっき、反乱)などが起きた時代でもあるのです。しかし、結果的に弱い人々は処罰の対象となって、なお一層苦しむことにもなりました。そのような民百姓を思う歌があります。良寛は、民が悪いと言うのなら、まず民を治める者が自らをとがめてほしい(自省を)と詠っています。

しろしめす民があしくば 我からと 身をとがめてよ 民があしくば

をちこちの縣(あがた)司(つかさ)に物申す もとの心を ゆめ忘らすな

為政者に対して、民を治める者として、まず民を思うその初心を忘れないように、と詠っています。

我が袖(そで)は しとどに濡(ぬ)れぬ うつせみの 憂(う)き世の中のことを思うに

良寛は、疫病が流行って多くの子供たちが亡くなったとき、その知っている子も知らない子も、すべての子供達に手向けるために、安らかな極楽往生を願って、祈りを捧げています。

有縁無縁(うえんむえん)の童(わらべ)に迴向(えこう)すとて、誘引(ゆういん)。

知る知らぬ 誘(いざな)ひ(い)給(たま)へ 御仏の 法(のり)の蓮(はちす)の花の台(うてな)に



7

良寛の漢詩「僧伽」には、良寛の信じた法(真理)を求める僧(修行者)のありようが示されています。

修行者と称して法を修めるためではなく、この世を上手く渡る僧の有様を嘆いています。さらに、そこには良寛自身の自省の念とともに、あとに続く求道者にたいして、強い覚悟と励ましの言葉がつづられています。

落髪爲僧伽、乞食聊養素。

自見己如此、如何不省吾。

我見出家児、昼夜浪喚呼。

秖爲口腹故、一生外邉騖。

落髪(らくはつ、髪を剃り)して僧伽(そうぎゃ、僧侶)となり、食(じき)を乞うて聊(いささ)か素を養う。

自ら見ること已(すで)に此(かく)の如し、如何(いかに)省吾(しょうご、どのようにして自らを省みて自らを知り悟りを得られようか)せざらん。

我(わ)れ出家の児(じ、出家者達)を見るに、昼夜(ちゅうや)浪(みだり)に喚呼(かんこ、大きな声をあげる)す。

ただ口腹(こうふく)の為の故(ゆえ、食べたり飲んだりの生活の手立てのため)に、一生外辺(がいへん、一生を仏道の真髄から離れた世界)を騖(は)しる。

 

白衣無道心、猶尚是可恕。

出家無道心、如之何其汚。

髪断三界愛、衣壤有相色。

棄恩入無爲、是非等閑作。

白衣(修行者でない人)の道心なきは、猶(なお)尚(なお)是(こ)れを恕(ゆる)すべし。

出家(仏道修行者)の道心なきは、其の汚(けが)れを之れ如何(いか)にせん。

髪は三界(さんがい、一切衆生の輪廻の世界。欲界、色界、無色界(過去、現在、未来に通じる現象界))の愛(煩悩)を断ち、衣(ころも、僧衣)は有相の色(うそうのしき、現象界の有形無形の是非)を壊(やぶ)る。

恩(おん、世俗情念)を棄てて無為(むい、悟道)に入(い)るは、是れ等閑(とうかん)の作(しわざ、いい加減な出来心から始めたこと)に非(あ)らず。

 

我適彼朝野、士女各有作。

不織何以衣、不耕何以哺。

今穪釋氏子、無行亦無悟。

徒費檀越施、三業不相顧。

われ彼(か)の朝野(ちょうや)を適(ゆ)くに、士女(しじょ、男女)各々(おのおの)作(な、仕事)す有り。

織(お)らずんば何を以(も)ってか衣(き)、耕(たがや)さずんば何を以ってか喰(くら)わん。

今 釈氏の子(しゃくしのし、釈尊の弟子)と称(しょう)して、行(ぎょう、真の修行)も無く亦(ま)た悟りも無し。

徒(いたず)らに檀越(だんおつ、檀家)の施(せ、布施)を費(つい)やして、三業(さんごう、身口意の行い)相顧(あいかえり、自省)みず。

 

聚頭打大語、因循度旦暮。

外面逞殊勝、迷他田野嫗。

謂言好箇手、吁嗟何日寤。

縦入乳虎隊、勿践名利路。

頭(ず)を聚(あつ)めて大語(たいご、大口)を打(たた)き、因循(いんじゅん)して旦暮を度る(たんぼをわたる、日々をずるずると過ごす)。

外面(げめん、そとずら)は殊勝(しゅしょう)を逞しうして(たくましうして、偽善をうまく見せかけて)他(か)の田野(でんや)の嫗(おうな、老女)を迷(まよ)わす。

謂言(いう)なら好箇の手(こうこのしゅ、かしこくてずるい奴)と、吁嗟(ああ)何れの日にか寤(さ)めん(いつの日に気付くのであろう)

縦(たと)え乳虎(にゅうこ)の隊(むれ、危険な地)に入るとも、名利(みょうり)の路(みち)を践(ふ、名財色愛の我欲の道を歩)むことなかれ。

 

名利纔入心、海水亦難澍。

阿爺自度爾、暁夜何所作。

焼香請仏神、永願道心固。

似爾如今日、乃無不抵捂。

名利(みょうり)纔(わず)かに心に入らば、海水も亦たうるおし難し(名利の欲を少しでも持ったなら多くの手立てを持ってしても、執着を捨てられなくなる)

阿爺(あや)爾(なんじ)を度して(どして、さとして)より、暁夜(ぎょうや、毎日、朝から晩まで)何の作(な)せし所ぞ。

香(こう)を焼(た)いて仏神に請い、永く道心(仏道求道心)の固からんことを願う。

爾(なんじ)が今日(こんにち)の如(ごと)きに似たるは、乃(すなわ)ち抵捂(ていご、かたくなに相容れぬ心境)せざる無からんや。

 

三界如客舎、人命似朝露。

好事常易失、正法亦難遇。

須著精彩好、母待換手呼。

今我苦口説、竟非好心作。

三界は客舎(かくしゃ、旅の宿)の如し、人命(じんめい)は朝露(ちょうろ、はかなき瞬間の露)に似たり。

好事(こうじ、享楽)は常に失い易(やす)く、正法(しょうぼう、真理の教え)も亦(ま)た遇(あ)い難し。

須(すべか)らく精彩を著く(せいさいをつく、真に意義のある生き方を示す)べくして好(よ)し、手(しゅ)を換えて呼ぶを待つ母(なか)れ(今すぐこの正法に従い努力し、後の仏縁(機会)を待つことのないように)

今我れ苦に口説する(ねんごろにくせつする、あえて苦言を呈する)も、竟(つい)に好心(こうしん、単なる物好き)の作(しわざ、行い)に非(あら)ず。

 

自今熟思量 可改汝其度

勉哉後世子 莫自遺懼怖

今より熟(つら)つら思量して(しりょうして、今からよくよく、深く考えて)、汝(なんじ)が其(そ)の度(ど、処し方、なす所)を改(あらた)むべし。

勉(つと)めよや後の世の子(し、仏道を目指す人々)、自(みずか)ら懼怖(くふ、おそれ)を遺(のこ)すこと莫(なか)れ。




8

良寛の人となりや生活の様子を知る上で、良寛によって書かれ今に残る手紙類も欠かせないものとなっています。

以下の文面は、良寛禅師奇話を著した解良栄重の父、叔門(しゅくもん)に宛てた多くの手紙(書付け)類の内の一つです。

叔門老         良寛

是はあたりの人に候(そうろう) 夫は他国へ穴ほり(出かせぎ)に行しが 如何到(いかがいたし)候やら去冬は帰へらず こどもを多くもち候得(そうらえ)ども まだ十(十歳)よりしたなり 

此春は村々を乞食(こつじき)して 其日(そのひ)を送り(過ごし)候 何ぞあたへ(与え)て渡世(とせい)の助(たすけ)にもいたさせんとおもへども 貧窮(ひんきゅう、無一物)の僧なれば いたしかたもなし

何なりと 少々此者に御あたい(与え)可被下(くださるべく)候

正月四日 

解良家では、この手紙を持って来たその女性に対して、正月用のもち等を持たせて、その窮状を助けたと伝わっています。良寛が正月二十二日付けで叔門に宛てた手紙の中の一部に、(貧人に餅多くたまはり)との礼の言葉が述べられています。

世の中に 同じ心の人もがな 草の庵に一夜語らむ

良寛は、生涯を通して幾度となく各地行脚をおこなったようです。

越後に戻った良寛は、各地行脚をくり返しつつ、出雲崎近辺の空庵を転々とし、48歳頃から60歳頃までは国上寺の五合庵を主な住居としていました。

渡し守(わたしもり) はや舟出せよ ぬばたまの夜霧は立ちぬ 川の瀬ごとに

ひさかたの天の川原の渡し守(もり) 川波高し 心して越せ

 

[故郷に花を見て]

なにごとも 移りのみ行く世の中に 花は昔の春に変らず

 

ほととぎす 汝(な)が鳴く声を懐かしみ この日暮らしつ その山のべに

わくらばに 人も通わぬ山里は 梢(こずえ)に蝉(せみ)の声ばかりして

 

淋しさに 草の庵(いおり)を出て見れば 稲葉(いなば)押しなみ秋風ぞ吹く

もみじ葉(ば)は 散りはするとも谷川に 影だに残せ 秋の形見に 

秋山を 我が越え来ればたまぼこの 道も照るまで 紅葉(もみじ)しにけり

秋の夕べ 虫音を聞きに僧ひとり をち方里は 霧にうづまる

 

我が宿は 越の白山(しらやま、はくさん)冬籠り(ふゆごもり)行き来の人の 跡形(あとかた)もなし

埋(うづ)み火に 足さしくべて [足さしのべて] 臥(ふ)せれども こよひの寒さ腹にとほりぬ



9

児童相見て 共に相語る

去年の痴僧(ちそう) 今また来(きた)ると

 

青陽(せいよう)は二月の初め 物色(ぶっしょく)ようやく新鮮なり

この時 鉢盂(はちう)を持ち 騰々(とうとう)として市鄽(してん)に遊ぶ

児童たちまち我を見て 欣々(きんきん)として相将(ひき)いて来(きた)る

我を要(とど)む 寺門の前 我を引いて 行くこと遅々たり

盂(はち)を白石の上に放(はな)す 嚢(のう)を青松の枝に掛(か)く

ここに百草(ひゃくそう)を闘(たたか)わせ ここに毬子(きゅうし)を打つ

我打てば 渠(かれ)しばらく歌い 我歌えば 渠(かれ)これを打つ

打ち去り また打ち来(きた)り 時節の移るを知らず

行く人の 我を顧(かえり)みて笑う 何に因(よって)か それかくの如(ごと)きと

低頭(ていとう)して応(こた)うること能(あた)わず

道(い)い得(う)るとも また何(いか)に似(に)せん

箇中(こちゅう)の意を知らんと要せば 元来(がんらい) ただこれ これのみ

 

「子供たちが互いに見合って、語り合っている。去年来た変なお坊さんが、今またやって来たと」

「深い雪に閉ざされた一冬を越え 季節は春(旧二月の初め) 自然の景色は色鮮やかとなった 

そこで鉢を持ち ゆっくりと町を乞食して行く 子供たちが私を見て 喜々としてたがいに伴なって寄ってくる

私をとどめ門前に引いて行く そこで鉢を白い石の上に置き 頭陀袋(ずだぶくろ)を松の枝に掛ける 

こちらは百草(草合わせ)を闘わせ こちらでは毬(まり)をつく 私がつくと子供たちが歌い 私が歌うと子供たちがつく 子供がうち 又私がうつ 知らぬまに 時がたってしまう

道行く人々が そんな私を見て笑う 大人のくせに しかもお坊さんがなぜそんな事をしているのかと尋ねる 

私は頭を下げたまま 答えることが出来ない 答え得たとしても どのように表せよう 

どうしても私の真の心を知りたいのであれば もともと ただこれはこれのみ こうしているのは こうしているだけのこと」

良寛は、子供たちと共にその時を楽しみ、その時を生きることが出来たのです。それはまた、子供たちも感じていたでしょう。

大人の分別だけで子供を見ている人には、その時の良寛の、子供のような素直な心は理解できなかったでしょう。

秋の雨の 晴れ間にお出でて子供らと 山路たどれば 裳(も)のすそ濡れぬ

春の野の わか菜つむとて塩法(しおのり)の 坂のこなたにこの日暮らしつ

峠通れば茨(いばら)がとめる いばら放しゃれ日が暮れる

良寛と親しい交流のあった山田杜皐(とこう)との戯歌が残っています。

初とれの 鰯(いわし)のような良法師 やれ来たという子等の声々 (杜皐)

大めしを食ふて眠りし [あそむ(遊ん)では人のめし食ふ] 報いにや 鰯(いわし)の身とぞなりにける哉 (良寛)

この時の良寛の心の中には、子供の頃に父から言われた「カレイになってしまうぞ」の声が思い起こされていたことでしょう。

良寛には、元官職にありながらやがて非人となり、橋下に暮らす中、増水した川に流されたという人(八助)を思って作った歌があります。良寛は、得失、有無(うむ)は本来空(くう)である。貴賎、凡聖は同じく一如(いちにょ)である、もし人に聞かれたら波に映る明月が彼だと答えようと歌っています。

非人八助

金銀 官禄 天地に還(かえ)し

得失 有無 本来空なり

貴賎 凡聖 同じく一如

業障(ごうしょう) 輪廻 此の身に報(むく)ゆ

苦しい哉 両国長橋の下

帰り去る 一川流水の中

他日知音 若し相問わば

波心の明月 主人公



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いざここに 我が身は老いん足曳(び)きの 国上の山の松の下庵

霞立つ 長き春日に子供らと 遊ぶ春日は暮れずともよし

 

あしひきの 森の下屋の静けさに暫(しば)しとて 我が杖移しけり

夏草は 心のままに茂りけり 我(われ)庵(いおり)せむ この庵(いお)に

わが待ちし 秋は来(き)ぬらしこのゆふべ 草むらごとに虫の声する

 

破れ衣(きぬ、ころも)を 有(あ)りのごと(ありったけ) 着ては寝れども 山もとの 小笹(こささ)葺(ふ)く屋(や)は 寒くこそあれ

岩が根に したたる水を命にて 今年の冬も凌(しの)ぎつるかも

良寛は60歳頃に五合庵を出て、ふもと(村里)に近い乙子神社の草庵に移り、それから各地行脚等も含めて10年間ほど住んでいました。

神社の草庵に、これほど長い期間住んでいたということは、良寛の実践した信仰(仏道)が、世間(社会)の認める仏教、仏教教団、寺組織等に、いっさい縛られていなかった事を示しています。

神社の草庵に移ったのは、良寛があえて意図したものではなかったかもしれません。自然の成り行き(都合)であったかもしれず、当初は暫(しばら)くの間と考えていたのかもしれません。

しかし、その後、神社に10年ほども住み続けたという事実が示しているものがあります。

仏道修行者(僧侶)として、人々や社会に認められるための信仰(仏道)ではなかったのです。

どのような宗教(神、仏)、宗派であってもその人の信仰が真に正しいものでなくては意味はなく、その人の信仰が真に正しいものであれば、世間の名前や評価に左右されることはないでしょう。

良寛は、社会的な名前や世間の評価が、良寛の求める真の信仰とは無縁であることを知っていたのです。

たとえ 恒沙(ごうしゃ)の書を読むとも

一句を持(じ)するに如(し)かず

人有(あ)りて 若(も)し相(あい)問わば

如実(にょじつ)に自(みずか)らの心を知れ

 

「たとえ、数え切れないほどの多くの本を読んだとしても、

真実(真理)のことばを一句、自身のものとしている事には及ばない、

もし、人がその真実(真理)のことばとは何か、と問うならば、

正に、ありのまま(真実)に自分自身の心を知るべし(汝自身を知れ)、と答えよう」

良寛は、当時(江戸末期)の社会にあって、少年期から多くの書物を手にすることが出来たのです。その意味においては、学問的に恵まれた環境にいた人でした。したがってこの言葉は、まず誰よりも自分自身に語りかけたものでしょう。

如実知自心

良寛の求道にとって、まず何よりも大切なことは真実に自分自身の心を知ることと確信していたでしょう。

 

少小(しょうしょう)文(ふみ)を学びて儒(じゅ)になるに懶(ものう)く、

少年(しょうねん)禅に参じて燈(とう)を伝えず。

今草庵を結んで宮守(みやもり)となり、

半(なかば)社人に似、半僧に似たり。

 

「少小(現少年)の時から、漢文、孔子等を学んだが儒者になることもなかった、

少年(現青年)の時から、禅に入門し学んだが宗門の跡を継ぐ者にもならなかった。

今神社の草庵に住み、宮守のように暮らしている、

どちらともつかぬ、神社の人のようでもあり、僧侶のようでもある。」

 

良寛の近辺には、様々な形である程度生活を援助する人々がいましたが、良寛はほとんど無一物の生活をつらぬきました。

水茎(みずくき)の筆紙持たぬ(書の為の道具や紙がない)身ぞつらき 昨日は寺へ今日は医者どの



11

良寛は、その行動を一部の人々に誤解されて、危害を受けるようなこともありました。

良寛が危害を受けたという様々な逸話が伝わっていますが、どのような状況でも、良寛は言葉でも行動でも、決して自ら相手に仕返しをしたり、害を加えるようなことはなかったのです。

さらには、言い訳さえ主張していません。命さえ危ういところを、たまたま通りがかった良寛を知る人に助けられ、なぜ言い訳を言わなかったのか、の様に聞かれたとき、良寛は次のように答えたといわれています。

「話してみてもわからない人にはわからないから、そんな時は黙っているしかないから」

そのような時、良寛はただ黙っているか念仏を唱えたのみと伝わっています。


ある時、良寛が渡し舟に乗りました。その時の船頭は地元でも名だたる意地の悪い与太者でした。

人々からの嫌われ者で、だれの意見や注意も聞こうとせず、意地悪や乱暴を繰り返していました。

その船頭は、多くの人たちから尊敬されている良寛を気に入らず、良寛が自分の舟に一人で乗ってきたら、悪さをして落としてやろうと思っていました。
そんな時、良寛が一人で乗ってきたのです。この時とばかり船頭は、舟が川の中ほどへ来た時わざと舟を大きく揺らし続けました。

舟にしがみついていた良寛は、繰り返される大きな揺れに耐えきれずに、とうとう川に落ちてしまいました。泳げない良寛がもがきながら沈みかけたところを、その船頭に引き上げられました。

すると、危うく死にかけて息も絶え絶えだった良寛は、船頭を一切責めることなく、「あなたは命の恩人だ、ありがとう、ありがとう、このご恩は生涯忘れません、ありがとう、ありがとう」と、引き上げてくれた事への心からの感謝の礼だけを言い続けました。

その良寛の様子に船頭は心を打たれました。

それまでは誰の意見も注意も聞こうとしなかったその意地悪で与太者だった船頭は、その日から人に意地悪や乱暴をすることもなくなり、すっかり真人間に生まれ変わりました。その船頭はその出来事以来、良寛を生涯慕っていたと伝わっています。

この時の心から生まれ変わった船頭本人以外には、この話を後の世の人々に伝えることはできません。

この意地の悪かった船頭が良寛の心に触れることにより、心から生まれ変わった(真の懺悔をおこなった)からこそ、自分自身の罪(以前の心の恥)を正直に人々に話すことが出来たのでしょう。


誰が家か飯を喫ぜざらん 何の為ぞ自ら知らざる

伊余此の語(言葉)を出す 時に人皆が嗤(笑)

時に人の嗤(笑)うは尚可なり

我も亦(また) これを嗤(笑)わんと欲す

(笑)ひ 嗤(笑)ひて もし休(や)まずんば

直(ただち)に弥勒(みろく)の時に到らん

良寛は人々と笑いあっている時、弥勒の時が訪れると言っています。

誰でも毎日飯を食べずにいられない。しかし、何の為(なにゆえ)か自覚することもなく、知ることもない。

今、私がそのことを言うと、人々が皆笑う。

この時に、人が笑うのはとても良い。

私もまた、これをおおいに笑いたい。

笑い、笑って止(や)まなければ、

直ぐに弥勒菩薩の時が来る。

(弥勒菩薩  五十六億七千万年後(未来)に、この世に降り来たり、釈迦(仏陀)と等しく成道(正覚)し、衆生済度の法を説く未来仏(如来))

山里は 蛙(かはず)の声に なりにけり

草の庵に 足さしのべて 小山田の 山田のかはづ(蛙) 聞くがたのしさ

良寛は、その日々の生活のなかで、一人で仏を思い(祈り)、書をしたため歌を詠み、托鉢し乞食し、時に行脚に出て遊行しました。

人々に請われると経を読み、筆をとり書をしたためました(詩歌、戒語、愛語等)。また子供たちと、日の暮れるのも忘れて無邪気に遊び戯れたのです。

この宮の 森の木したに 子供らと あそぶ春日は暮れずともよし

いざ子供 山辺に行かん桜見に 明日ともいはば ちりもこそすれ

ひさかたの あまきるゆきと みるまでに ふるはさくらのはなにぞありける

花無心招蝶 蝶無心尋花

花開時蝶来 蝶来時花開

吾亦不知人 人亦不知吾

不知従帝則

 

「花は無心に蝶を招き 蝶は無心に花を尋ねる

花開く時蝶が来て 蝶が来る時花が開く

吾も亦(また)人を知らず 人も亦吾を知らず

知らずとも互いに 帝則(真理の摂理)に従っている」

 


 

漢詩、和歌、俳句一部文体等、編集 k-style

良寛の言葉の中には、あて(当)字やぬけ字(脱字)やえん(衍)字、また言葉使いなど、文法的におかしいとして自筆の原資料等から紹介される時点で修正されてきたものもあります。良寛在世当時に指摘され、「この字は間違っていると人が言ってましたよ」のように言われた時に良寛自身は「それならわかる人に直してもらえばいい」のように答えたとも伝わっています。たしかに文字の取り違え等が少なからずあったようです。したがって、良寛自身によって後世の修正を許可したものと受け取れないこともありません。しかし反面において、その当字や文法的に疑問とされる言葉の方が良寛の心情(真意、深意)を的確に表現しているのではないかと言えるものも少なからずあるように思われます。

k-styleにおきましては、良寛の言葉を紹介するにあたり、読まれる方々一人一人に、彼の言葉の真意が正しくとどきますように願っています。 

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