k-styleの良寛の言葉(詩歌、愛語、信仰) 中編


こちらでは、前編に引き続き、良寛さんとよばれ親しまれている、その人の言葉をとおして、その生涯と思想を見てゆくこととします。


1

忍 是れ功徳の元

良寛は忍(耐え忍ぶこと)を大切に思い、その生涯をとおして実践した人でした。仏法においては忍辱(にんにく)という言葉が使われます。耐えられそうもないという状況を耐え忍び、恨みを残さないことを表します。その忍の向こう側に真の功徳が待っていることが表現されています。

夢の世に また夢むすび 草枕 寝覚めさびしく 物思ふかな

夢とも言えるこの世にあって、さらに夢をみている旅寝、その寝覚めのさびしさに物思う。良寛は若き日の出奔、出家からその生涯をかけて修行(求道)の旅、教えを求める行脚(あんぎゃ)、教えを説く遊行(ゆぎょう)をくり返しました。

法の道 まことは見えで きのふの日も 今日もむなしく 暮らしつるかな

この時の良寛は、法の道(真理の道)は定かには見えないまま、昨日も今日も生きていると詠っています。良寛は生涯にわたって真(まこと、真理)を求め続けました。

濁(にご)る世を 澄(す)めともよはず(言わず) 我がなりに 澄まして見する 谷川の水

良寛は、澄んだ谷川の水のように、濁った世にあってまず自らが澄むことを望み、努めようとしたのです。

呉竹(くれたけ)の なほき姿は 偽りの おほ(多)かる世にも 障(さわ)らざりけり

なほき(直き)とは素直な心、良寛の愛した純朴な子供たちのような、素直な心を持った人、嘘やいつわりの多い世にあっても左右されることなく変わらないその姿、それが良寛の理想とした姿であったのです。

良寛の偈頌(げじゅ、仏教真理の詩)

(良寛七言詩、読み下し文)

空(くう)を座となし 慈(じ)を室(しつ)となし

運に任せて忍辱(にんにく)の衣(ころも)を挂著(けいじゃく)す

従容(しょうよう)として哮吼(こうく)し

畏(おそ)るることなく説くは

栴檀林中(せんだんりんちゅう)の獅子児(ししじ)なり

大いなる野にあって 涼風颯颯(りょうふうさつさつ)なり

 

「執着を離れて空に座し 人を愛して慈に住む

天運に任せて 耐え難きを耐える忍辱の衣を着て

悠々と優々と畏れることなく法を説くは

修行林の中の獅子児(修行者)なり

大いなる野に 涼風が涼(すず)やかに吹きぬけるように」

良寛は仏法の教えにおける空(くう)を座とし、人を慈(いつく)しみ愛する慈(じ)を室とする、と言っています。

ここには良寛がたびたび詩に表現した任運という(良寛の師から贈られた印可の偈にも含まれる)言葉が見えます。摂理(人や物との出会いや別れ、自然や環境の流れ)に素直に従ってゆく姿を示しています(良寛が努めた任運の境地とは、大切な(真理に基づく)摂理に素直に従う心のありようを表します)。

さらに良寛は、あらゆることを耐え忍ぶための忍辱(にんにく)の衣を着ている(志を秘めている)がゆえに、畏(おそ、恐)れることなく法を説く獅子児(修行者)なり、とその理想とする境地をこの漢詩に詠っています。

良寛はとりたてて説教をすることは少なかったといわれますが、その日々の生活の中で、様々な形で(言葉を使い、あるいは言葉によらず)法を説いたのです。



2

良寛は一人静かにいる時を、寂(せき)という文字を使って表現することがありました。一人を寂しいと感じ、耐え忍ぶときもあったでしょう。そして同時に一人を楽しんでもいたでしょう。

寒炉(かんろ) 深く炭を撥(か)く

孤燈(ことう) 復(また)明るからず

寂寞(せきばく)として 半夜(はんや)を過すに

壁(へき)を通して 溪声(けいせい)遠し

空庵に静かに坐す良寛の心が感じられる詩があります。

嗟(ああ)吾(わ)れ 胡(なん)爲(す)る者ぞ

之に対し 一(いつ)に長吟(ちょうぎん)するのみ

嗟(ああ)我(わ)れ 胡爲る者ぞ

永く故園(こえん)の扉(とびら)を守る

良寛は、いったい吾(自己)とは何者か(今、この世のこの地に何のために生きているのか)と自分に問いかけています。

風定まって 花尚(な)お落ち 

鳥啼(な)いて 山更(さら)に幽(ゆう)なり

観音妙智力(かんのんみょうちりき) 咄(とつ)

観音様は、数多くの仏教経典の中に登場してくる菩薩です。菩薩と称されますが、その実体は如来(仏)と等しく、この世に衆生済度に現れるために、菩薩のままで活動されているとも言われます。

観世音(観自在)菩薩は、この世の人々の救いを求める声を聞き(観て)、その智慧と慈悲によって、人々を救済すると説かれています。

また、世の人々にその智慧と慈悲を説き、仏の世界に導く菩薩とされています。

華厳(けごん)経においては、観自在(かんじざい)菩薩は衆生を利するために、補陀落山(ふだらくさん、光明山)において多くの菩薩の中心に常住し、一切衆生を摂取しようと大慈悲の菩薩道を行じ、衆生救済のために説法されると説かれます。

般若心経には、観自在菩薩はその般若の智慧により、色即是空 空即是色(この現象世界は空である)の真理を説かれ人々に彼岸(仏の世界)へと向かう事を説かれるとあります。

法華経には、観世音(かんぜおん)菩薩は三十三身(多種身)に応現(おうげん)してこの世に生まれて、救いを求める人々(衆生)の苦を取り除くとあります。それはまた、その煩悩の苦を取り除いた後に、やがて人々をその智慧と慈悲により、仏の世界へと導く手立てとして説かれているのです。

無量寿経、観無量寿経等には、無量の慈悲の象徴ともされる観世音菩薩は、無量の智慧の象徴ともされる大勢至(だいせいし)菩薩とともに無量寿仏(阿弥陀仏)の左右に在りと、仏国土の最も重要な菩薩であると説かれています。その光明は無量寿(無量光)仏に異ならないほど無量に放たれ(流出され)る。このような菩薩のその名を聞くだけでも無量の福を得るとたたえられています。

観世音(観自在)菩薩は、また聖(正)観音とも呼ばれ、聖(正)なるものを衆生に説き、人々を救済する菩薩とも表現されます。

良寛の記した、観音妙智力とは、以上のような観世音(観自在)菩薩の聖(正)なる智慧と慈悲の力を表現しているのです。



3

良寛禅師奇話

   師常ニ黙々トシテ、動作閑雅ニシテ、余有ルガ如シ。心広ケレバ体ユタカ也トハ、コノ言ナラン。(奇話第一段)

 

  師は常に黙々として、動作は閑雅(かんが)にして、

  余(あまり)あるが如し。

  心広ければ体(たい)ゆたか也とは、

  この言ならん。

   

   良寛禅師奇話は、解良栄重(けら よししげ)によって書かれた本で、良寛の没後に書かれたものです。栄重は、良寛とも面識があり(栄重の幼少青年期頃)、解良家と良寛は親しい交流があった事を考え合わせると (人づてのものも多く、内容がすべて事実そのままとは言えなくても) 当時の人々が見て感じた日常の良寛の姿を知るための貴重な資料となっているのです。

師は常に言ふ、吾は客あしらいが嫌い也と。(奇話第五段)

 

師は音吐(おんと)朗暢(ろうちょう)、読経の声心耳に徹(てっ)す。聞く者は自ずから信を起こす。 (奇話第七段)

 

師の至る里毎に、児輩多く癖をなして戯れをなす。何れの里にや、師は児童と遊び、よく死者の体をなし路傍にふす。児童あるいは草をおおい、木の葉を覆(おおい)て葬りの体をなして笑いたのしむ。以下略(奇話第九段)

 

師に書を求むれば、手習して手がよくなりて後、書かんと云う。其の時ありて興に乗じ、数巾(すうきん)を掃(はら)うこともあり。敢えて筆碩(ひつけん、ふでとすずり)と紙墨(しぼく、かみとすみ)の精粗(せいそ、良し悪し)を云わず、自らの詩歌を暗記して書す。故に字脱し、また大同小異ありて、詩歌一定ならず(書いた時によって少しずつ違う詩歌も存在する)。(奇話第十三段)

 

師は銭(ぜに)を賭けものにして、碁を囲むこともあり。人の多くは師に勝ちをゆづる。師は銭が多くなりて、やり処(どころ)なしと云う。又、人は銭の無きを憂(うれ)う、我は銭の多きを憂うと。(奇話第十八段)

 

師の平生、喜怒の色を見ず、疾言(しつげん)するを聞かず。其の飲食起居、おもむろにして愚なるがごとく(奇話第十九段)

 

師はよく人の為に病を看、飲食起居に心を尽くす。また、よく按摩(あんま)し、また、灸(きゅう)をすえる。人が明日我が為に灸をせよと言う。師は明日の事と言いてあえて諾せず。軽諾は信少なきが為か、また、生死明日を期せざるの故か。(奇話第二十二段)

師(良寛)は病人に対しては、食事や寝起きの手助けなどに心をつくし、按摩や灸などですすんでその世話をした。

しかし、「明日私に灸をしてくれ」と言われると、「明日のことは明日のこと」と言ってあえて承諾しなかった。簡単(軽はずみ)な約束は信頼がおけない為か、また、人の生死は明日を約束しない為か。

 



4

師、かつて某の駅を過ぎ、娼門(しょうもん)を過ぐ。遊女(ゆうじょ)あり、師の袖をひかへて泣く。師は、其の故(ゆえ)を知らず。

これは幼(よう)にして身をひさぎて他郷(たきょう)に在り、父母の形容(けいよう)を知らず。父母を思うこと切なり。昨夜、夢に父来ると知る。師を見て父也と思えるなり。

この話、師自ら語られし。余は幼くして始終を詳(つまび)らかにせず。知る人にきかん。(奇話第二十九段)

この話は作者(栄重)が師(良寛)から直接に聞いたと述べています。

良寛は、かつてある町に入り、遊郭(ゆうかく)の前を通り過ぎた。その時、一人の遊女が良寛の袖を引き、泣き出したとあります。良寛は、なぜ泣いているのか其のわけが解らなかった。

しばらくは泣き続けたでしょう。良寛はそのまま黙って立ち続けていたが、やがてその遊女に声をかけます。「なにがあったのか、どうして泣いているのか?」と、遊女はそのわけを話します。

「わたしは幼い頃に事情があって、生まれ故郷をはなれ、遊郭に暮らすようになったのです。父母の姿がどのようであったか覚えていないけれど、お父さんお母さんを慕う気持ちが強くて、とても会いたいと思っていました。昨夜父が会いに来てくれる夢をみました。そして、今あなたを見て、お父さんに違いないと思ったのです」と。

この段はここまでで終っています。栄重は、「私は、これを師から聞いたとき幼かったので、今そのすべてを明らかにすることが出来ない」と語っています。

以下は、奇話二十九段には無い話です。

良寛は、しいて人に法を説く人ではなかったと伝えられています。しかし、この時の良寛は、彼女の涙をそっとぬぐってあげ、その手を取ってやさしく話しかけたことでしょう。

「今はたくさん泣いてもいい、でも、また元気を出しなさい。今までつらい事にも、たくさん耐えてきたね」 遊女は良寛の言葉に聞き入ります。「仏様の教えは、このように説かれているのだよ、今つらいことや耐えがたいことに耐えている人には、やがてその百倍も千倍もの良いものが与えられると。仏様の真の教えというものは、つらい事に良く耐えて、その命を精一杯に生きぬいた人を決して裏切ることはない」 

つらそうであった彼女の顔には、かすかなほほ笑みと安堵の色が浮かびます。「元気でいれば、その内、またきっと会えることだろう。だから、つらい時にもくじけないように勇気を出して、生きていくんだよ」

伝承と共に良寛と由之(弟)の問答歌が残っています。それによると、良寛が遊女とおはじき等をして戯れている、と大きな評判(噂)がたっている。僧侶の身であるまじき事と嘲笑、非難を受けている。心配した由之が、その良寛の行動をそれとなく歌の中でいさめると、良寛は、遊女もこの世を生きている同じ人間、自分もまったくそれと同じこの世を生きている人間である、と歌によって答えています。

 

中元前後、郷俗(きょうぞく、郷里の人々)宵(よい)を通して踊り(盆踊り)をなす、都(すべ、総)て狂うが如し。師は是を好む。手巾(しゅきん、手ぬぐい)を以って頭を包み、婦人の状(じょう、様子)をなし、衆と共に踊る。人は師なることを知り、傍(そば)に立ちて曰(いわ)く、この娘子(むすめご)品(しな)よし、誰の家の娘と。師は是を聞きて悦び、人に誇りて曰く、余を見て誰家(たがいえ)の娘と云うと。(奇話第三十二段)

 

師、雨に逢い、石地蔵の笠きたる傍(そば)に立ちて雨をしのぐ。人は師なることを知り、家に伴い帰り、而(しか)して書を求む。師はイロハニホヘトの歌を十二枚に大書すと云う。(奇話第四十三段)



5

医師の正貞と云う者あり。師に問いて曰く、吾は金を欲す、如何(いか)にせば金を得んと。師曰く、業(ぎょう、仕事)を勤(おさ、つと)めて、人の手元(持ち物、お金)を見ることなかれと。(奇話第四十六段)

 

又、人同じき道を問う。師曰く、金を人に借ることあらば、其の期(期日)をたがえずして返すべしと。(奇話第四十七段)

 

師は、余が家に信宿(しんしゅく)日を重(かさ)ぬ。上下(じょうか)自ら和睦(わぼく)し、和気(わき)家に充(み)ち、帰り去るといえども、数日の内(うち)人自ら和す。

師と語ること一夕(いっせき)すれば、胸襟(きょうきん)清きことを覚ゆ。

師更に内外の経文を説き、善を勧むるにもあらず、あるいは厨下(ちゅうか)につきて火を焼(た)き、あるいは正堂に座禅す。其の話、詩文にわたらず、道義に及ばず、優游(ゆうゆう)として名状(めいじょう)すべきことなし。ただ道徳の人を化(か)するのみ。(奇話第四十八段)

師は私の家に数日間泊まってゆくこともあった。家の者は、上の者から下の者まで皆、自らおだやかになり、仲の良い空気が家中に満ちていた。

師が帰った後も、数日の間皆おだやかに過ごしていた。師と一晩語った後は、それだけで心が清らかな気持ちになった。

師は、とりたてて経文の説教をすることもなく、善行を勧めることもなかった。何をしているかといえば、時には台所で手助けをして火を焚いていたり、部屋の中で座禅をしていたりもした。

師は多くを語る人ではなかった。師と話す内容はごく普通のことで、むずかしい漢詩等の話ではなく、また道徳等の話でもなかった。

師には優游という言葉が似合っていた。おだやかに落ち着きがあり、優しさと共に余裕が感じられた。特に目立つような事もせず、普通にしているだけなのに、師の近くにいて人間性にふれるだけで、人々をおだやかにさせ、すがすがしい気持ちにさせた。

 

師の平生の行状(日常の行い等)、詩歌中に具在す(ぐざいす、そのままに具体的に表現されている)。今又、此(ここ)に贅(ぜい)せず(余分な事を書かず)。其の逸事(いつじ、逸話等)を記するのみ。(奇話第五十段)

 

師は神気(しんき)内に充ちて秀発(しゅうはつ)す。其の形容神仙の如し。長大にして清癯(せいく)、隆準(りゅうせつ)にして鳳眼(ほうがん)、温良にして厳正、一点香火の気なし、余嬙(よしゃう)高くして、宮室の美を知ることなし。今其の形状を追想するに、当今似たる人を見ず。(以下略)(奇話第五十二段) 

師は神気が内面に満ち、それを周囲に発して神仙のようであった。その身体は、背は高くて痩せていた。鼻が高く目は切れ長にして深みがあった。温和であって威厳があった。それでいて、いかにも僧侶のようではなかった。その内に秘めた美しさ(本体にある深遠な真理)を知ろうにも垣根が高すぎて、常人には、それをのぞき見ることさえ出来なかった。今になって、師のその様子を思い返してみても、当時も今も、此の世の中に似た人を見ることは出来ない。



6

遊びをせんとや生れけん、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の聲(声)きけば、我が身さへ(え)こそ動(ゆる)がるれ

この里に 手毬つきつつ 子供らと 遊ぶ春日はくれずともよし

風さそふ 柳のもとに まとゐ(い)して 遊ぶ春日は心のどけし

子供らと手たづさわりて 春の野に 若菜をつむは 楽しくあるかも

独り臥(ふ)す 草庵の裡(うち)

終日 人の視(み)ること無し

鉢嚢(はつのう) 永く壁に掛かり

烏籐(うとう) 全く塵(ちり)に委(まか)す

夢は去(ゆ)きて 山野を翔(かけ)り

魂は帰りて 城闉(じょういん)に遊ぶ

陌上(はくじょう)の 諸童子(しょどうじ)

旧(きゅう)に依って 我が到るをまたん

坐して 時に落葉(らくよう)を聞くも

静(せい)に住(じゅう)するは 是れ出家

従来 思量(しりょう)を断ちしも

覚えず 涙(なみだ)巾(きん)を洽(うるお)す

 

良寛はその心の内を正直にうたっています。一人臥すとありますから、身体の調子が悪く、布団の中に入ったまま誰も来ることもなく、一日が過ぎていったのでしょう。托鉢用の鉢嚢が永く壁に掛かり、とありますからその病が長引いて、すでに何日も経っていたのでしょう。

夢みるように、良寛の心(魂)は、山野を翔け、城闉に遊ぶとありますから、良寛の来るのを待つ、道端の子供たちのもとへと向かいます。手まりをつき、かくれんぼをし、時には花を見に行き、若菜を摘み、時のたつのを忘れます。

あるいは、魂は帰りてとありますから、時には、その心は少年、青年の頃へ、町に出かけて行き楽しく過ごしていた頃へ、若い仲間たちと共に自由に過ごしていた頃へと翔けていったこともあるでしょう。

やがて、少し回復を見て、座禅をする元気を取り戻した良寛は、静かに坐り、落ち葉の音が聞こえるような時間を過ごしています。落ち着いた静けさが良寛をつつんでいます。良寛は出家の本来の姿を良く知っています。出家の捨てるべきものも心得ています。

涙が良寛の手ぬぐいをぬらしたことを、良寛は不覚にもとうたっています。自分自身の出家者としての生き方に信念と誇りを持っていても、寂しい時は寂しく、また悲しい時は悲しく、人としてその目に涙の流れることもあることを、正直にうたっています。

良寛の人間としての暖かさ、優しさは、自分に害を加えたり、罪をなす人にさえも向けられました。そして、それは、きっと自分自身にも向けられていたことでしょう。この世間の中で、俗にも僧侶にもあらずと言われ、どちらをも超越して生きていたともいえる良寛ですが、同時に様々な感情を持つ生身の人間として生きていた良寛を、ここに見ることができるでしょう。

雨のふる日は あはれなりけり 良寛坊

朝から雨に降り込められると托鉢にも出られず、その日の食べ物にも事欠くつらい日々もあったでしょう。また、托鉢の途上で雨に降られると、濡れた身体で帰るみじめな姿を表してもいるでしょう。しかし、この言葉には、生涯乞食行をつらぬいた良寛自身をいたわるような優しさが感じられます。真の道のための試練は(つらい事にあえばあうほど)良寛をより暖かく優しい人へと導いていったのでしょう。



7

いかに(如何に)せば まこと(真)のみち(道)にかなは(適わ)めと ひとへにおも(思)へねて(寝て)もさめ(覚め)ても

すて(捨て)しみ(身)を いかに(如何に)とと(問)はば ひさ(久)かたの あめ(雨)ふ(降)らばふれ かぜ(風)ふ(吹)かばふけ

いかに(如何に)して まこと(真)のみち(道)にかな(適)ひなむ ちとせ(千歳)のうち(内)に ひとひ(一日)なりとも

この和歌に良寛の求道の心が詠まれています。

寝ても覚めても真(まこと、真理、法)の道に適いたいと、一筋に思い続けよう。

一度、法(真理)の為に捨てた身であれば、どのような困難(雨風)も耐え忍ぼう。

たとえ百年、千年の内の一日でも真(まこと、真理、法)の道に適うよう手立てを尽くそう、と詠っています。



8

「ハイ コンチワ 何卒(なにとぞ)雑炊の味噌一かさ被下度(くだされたく)候。 ハイ サヨナラ 良寛」

この書付(手紙)には宛名はありませんから、近所の家に対して知り合いの子供等に持たせた物かとも伝えられています。良寛の手紙類の中には多くの喜捨(恵み)への礼状がみられます。そのほとんどが地域の庄屋など、物不足の当時にあっても、経済的面で割合に恵まれた人々へのものでしめられています。

「何卒 白雪こう(はくせつこう) 少々御恵たまはり度(たく)候 余の菓子は無用  

十一月五日 山田杜皐老    沙門良寛」

白雪こう(菓子)は、当時湯に溶かして母乳代わりに幼児に与えたことが知られています。知り合いの急を要する(母乳の得られなくなった)幼児の為にどうしてもほしかったものと思われます。自分(良寛)の他の菓子なら要りません(余の菓子は無用)と断っています。 この前日には、出雲崎の菓子屋三十郎宛にも同じ菓子の恵み(喜捨)を希望する手紙を出しています。

盗人に 取り残されし 窓の月

良寛は何度か泥棒(空き巣等)の被害にもあったようです。ある夜良寛の庵に入った泥棒は、取るべき物もない空庵で良寛が敷いて寝ている布団(敷物)に手をかけたのです。良寛は寝たふりをしたまま、その引くのにまかせて寝返りを打ってわざと持ち去らせたと伝わっています。(良寛禅師奇話第四十五段) 


良寛と親しく交流し時には法を語り、あるいは酒を酌み交わし、和歌を詠みあった阿部定珍(庄屋、酒造業)との贈答歌が残っています。

さす竹の 君がいほり(庵)に来てみれば 春ものどかに 百鳥の鳴く  (定珍)(さす竹の 君の枕詞)

返し

百鳥の木伝ひて鳴く 今日しもぞ 更にやの(飲)まん ひとつきの酒  (良寛)

よしあし(良し悪し)の なには(難波、当時の大阪、この世間)の事は さもあらばあれ 共につくさむ 一杯(ひとつき)の酒

良寛には安部定珍はじめ共に酒を酌み交わし、歌を詠み交わした友(彼らの多くが良寛を慕い、その生活を援助した人々)がいました。また、里の人々(農夫等)とも酒を楽しむこともありました。良寛自身は酒を楽しむことはあっても、酒に酔って我を失ったり羽目をはずしたりはしなかったようです。

仏教の戒の一つとして不飲酒戒があります。良寛にとっての飲酒の問題は、その良寛自身の求道(良寛の求めた仏道)の妨(さまた)げの第一義のこととは思っていなかったのでしょう。しかし、自身の問題として酒の功罪はよく承知していたものと思われます。良寛によって残された戒語の中に次のようなものがあります。「酒に酔いてことわりを言う」 「酒に酔っている人にことわりを言う」 理(ことわり)とは、道理にかなう正しい筋道を言います。したがって良寛は、人が酒に酔うと理性や正しい道理を失いかねない事を、常に起こり得ることとして注意しているのです。

良寛禅師奇話第二段には次のように記されています。「師(良寛)は常に酒を好む。然りと雖も、量を超えて酔狂に至るを見ず。以下略」



9

70歳頃(身体の衰えもあり)和島村島崎の木村家(庄屋、浄土教信徒、能登屋木村元右衛門宅)の納屋(庵)に移りました(母屋の内の良い部屋に、との木村家の申し入れにたいして、粗末な物置小屋(納屋)を自ら望んだといわれています)。その時の良寛は、一時的に冬の間だけでも移ろうと考えていたようです(常に人々の気配がする里(村落の民家の庭先)は、それだけでも気ぜわしく、きゅうくつなものだったでしょう)が、長期不在の時期等も経て、やがてそこが良寛の終の棲家(ついのすみか)となりました。

次の手紙は、安部定珍に宛てたものです。

定珍老         良寛

野僧も此冬は、島崎にて冬ごもり致(いたし)候

一寸(ちょっと) 御しらせ申上候  十月九日

 



10

良寛が71歳の時、多くの被害のあった三条大地震が起こりました。良寛はその時、木村家の納屋(庵)に住んでいたのですが無事に済みました。良寛に知人等から見舞い状が寄せられたのですが、そのうちの一人、山田杜皐(とこう)に宛てて個人的に出されたのが次の文面(言葉)です。

この文は、杜皐に対して個人的に出されたものです。したがって良寛は、杜皐ならこの文面だけでそのままに、良寛の伝えたい心を正しく理解してくれる、と考えて書かれたものなのです。ここには、良寛の自然や人の世に対しての思想がよく表れています。その中で誰にも貴重な教示となる部分を以下に記します。

地しん(震)は信(まこと)に大変に候(そうろう)(中略) 

うちつけにし(死)なばし(死)なずにながらえて

かかるうきめ(憂き目)を みるがわびしき

 

しかし、災難に逢う時節には 災難に逢うがよく候

死ぬ時節には 死ぬがよく候

是(これ)はこれ 災難をのがるゝ妙法にて候

 

かしこ  山田杜皐老  良寛

この世の中で、災難や死の問題を真っ直ぐに受け止めて、その上で、それを乗り越えて強く生き抜くことは、一人一人の人間にとって大切なことです。

人知の及ばない自然(災難や死)に対して、良寛はそれをそのままに受け取ると言っています。決してそれは、ものごとを冷たく見放すというような事を意味してはいないのです。

良寛にとっても、悲しい事は悲しく、つらい事はつらいのです。その悲しさつらさを受け止める心のありよう(覚悟)を説いているのです。それこそが、良寛の信じた仏法(真理)に通じるものでしょう。

この時、傍観できなかった良寛は被災地の人々を心配して、三条に出かけたと伝えられています。

この手紙で、良寛は突然に死んでしまう事になったかもしれないのに、生き長らえたためにこのような惨状を見ることになって、悲しいことであると正直に述べています。大災害に生き残った人々の、その後の悲惨な状況も、良寛にとっては自分の事のように悲しい事だったのです。

ほとんど無一物であり、当時にあっては特に高齢(71歳)の良寛にとって、その惨状は見ることさえつらいありさまであったのです。

良寛は、その後の被災者への救済事業、治世等に対しても注意を向け、心をいためていたと伝えられています。

ながらへんことや思いしかくばかり

変わり果てぬる世とは知らずて

 

かくかくに 止まらぬものは涙なり

人の見る目も忍ぶばかりに

 

「人心退廃をさとす」良寛漢詩読み下し文

「況(いわん)や復(また)久しく太平になれ、人心堕弛(だち、廃退)す。錯(さく)をもって錯に就き、幾たびか時を経たる。己(おのれ)に慢(おご)り人を欺(あざむ)くを好手(こうしゅ)と為す。この度(たび)の災禍(さいか)また宣(うべ)ならずや」

「この度の災禍なお遅きに似たり。星辰(せいしん)度(ど)を失す何ぞ能(よ)く知らん。歳序(さいじょ)節(せつ)なきこと已(すで)に多事なり。若(も)し此の意を得なば須(すべか)らく自省すべし」



11

「草庵雪夜作」

首(こうべ)を回らせば 七十有余年

人間(じんかん)の是非(ぜひ) 看破(かんぱ)に飽きたり

往来(おうらい)の跡は幽(かすか)なり 深夜の雪

一炷(いっしゅ)の線香 古窓(こそう)の下(もと)

 

「(この生涯)思い返せば すでに七十有余年

(この世の)人間の是非を様々に、飽きるほど十分に、見聞きしてきた

今夜は雪が降っている 行き来する人も果てゝ

空庵に一人座して(祈り) 一本の線香を灯す」



12

最晩年の良寛は、主に、木村家にある納屋に手を加えた小屋(庵)に居て、訪ねてくる人々と交流しました。また自らも出かけることもありましたが、身体の衰えとともに次第に病を得て、床に臥すことが多くなりました。

この夜らの いつか明けなん この夜らの 明けはなれなば おみな(老婆)来て ばり(汚れ)をあらはむ(洗う) こ(乞、恋、請)ひ(い)まろび 明かしかねけり ながき(長き)この夜を

良寛は、次第に自由がきかなくなり、時に病のために下痢を繰り返すという状態もあって、人の手(介護)をかりなければ時を過ごせない自分の様子(長い夜)を、由之宛の手紙の中で正直にうたっています。次第に食べることも遠のいてゆき、やがてこの世の命の終わり(入寂)を迎えます。

その臨終の近くには木村家の人々、急を聞いて駆けつけた弟の由之、法弟の遍澄、臨終間近の数日を見取った貞心尼等がいました。

良寛はその病の間、特に苦しむという様子もなく、最後は眠るように入寂(他界)しました(貞心尼記、浄業余事)。それは1831年(天保2年)1月6日の雪の降り積もる夕方であったと伝えられています。

あは雪の なかにたちたる 三千大世界(みちおほち) またそのなかに あわ雪ぞふる

散るさくら 残るさくらも 散るさくら

形見とて何か残さん 春は花 山ほととぎす秋はもみぢ葉

みほとけの まことちかひの ひろからば いざなひたまへ とこよのくにへ

葬儀の喪主は神官(甥)山本泰樹(やすしげ、馬之助)、主催は曹洞宗、墓は浄土真宗、墓碑は南無阿弥陀仏(良寛筆) その求道が宗派を超えていた良寛にふさわしく、総勢十六ヶ寺十八人の宗派を異にする住職が経を捧げたと伝わっています。

良寛は、良寛を慕う多くの人々に送られて仏の国へ旅立ちました。



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生涯 身を立つるにものうく

騰騰(とうとう)として 天真に任す

嚢中(のうちゅう) 三升の米

炉辺(ろへん) 一束(いっそく)の薪(たきぎ)

誰か問わん 迷悟(めいご)の跡

何ぞ知らん 名利(みょうり)の塵(ちり)

夜雨 草庵の裡(うち)

双脚(そうきゃく) 等閑(とうかん)に伸ばす

 

「生まれてからこのかた、立身出世には気がすすまず、

あるがままに、天に任せて過ごしてきた。

袋の中には、三升の米、

炉辺には、一束の薪、

迷いとか悟りとかにこだわることもなく、

名誉とか損得とかも考えない。

雨の夜には草庵の中で、

両足を伸ばし、のんびりとしている」



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なにゆゑ(え)に家をいでしと折ふしは

心に恥じよ墨染めの袖

良寛は、その出家後は厳しい戒律を守り、自分に厳しく修行に徹底した日々を送った時期があります。その上で修行(学問)のための修行の期間を乗り越えて、真の心の修行者(求道者)になっていきます。

晩年に向かってその真の信仰を深めて行きます。生活上においても、ほとんど無一物を守り抜きました。その意味においても、生涯を通じて真の仏道修行(求道)の人であったのです。

うつそみの 人の憂けく(うけく、悲哀、受け苦)を聞くは憂し 我もささがに岩木ならねば

世間の人々の憂しこと(悲哀)を聞くと、我も悲しく切ない、出家の身ではあるけれど木石ではない(生身の人間である)から。



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良寛が、島崎木村家の嫁に行く娘の為に、頼まれて書いた心得(一部)があります。

1、お菜作り、汁の仕立てよう等の炊事(その家なりの仕様)を覚える事

1、読み書きを軽んじてはならない事

1、もの(道理、摂理)に逆らうべからざる事

 1、掃き掃除は自分でする事

1、上をうやまい、下をあわれみ しょう(生)あるもの、とり(鳥)けだもの(獣)にいたるまで、なさけ(情)をかけるべき事

良寛の戒語の中には言葉の使い方について、多くのものが残されており、良寛が言葉を大切にすべきものと考えていたことがよくわかります。以下にその一部をあげてみます。

口の早き。 言葉の多き。 あいだの切れぬように物言う。 人の物言い切らぬ内に物言う。 物言いのきわどき。 話の長き。 

問われもしない事を語る。 手がら話。 物知り顔に言う。 減らず口。 差し出口。 かしましく物言う。 げらげら笑ひ。 おしのつよき。 人惑わしの事言う。 子供をたぶらかす言葉。 

 軽はずみに物言う。 鼻であしらう。 たやすく約束する。 親切気に物言う。 

人に物あげぬ先に何々やろうと言う。 あげて後にそのことを語る。 口真似。 子供のこしゃくなる。 若者の無駄話。 老人のくどき。 自慢話。 

よくものの講釈したがる。 よく心得ぬ事を人に教える。  悟りくさき話。 学者くさき話。 風雅くさき話。 不思議話。

人の困る事言う。 人の傷つく事言う。 人の嫌がる事言う。 人の隠す事をあからさまに言う。 人を敬いすぎる。 嘲笑する物言い。 争い話。 心にもなき事言う。   

思いやりがない 寝つかぬ人の傍らに話する。人をあわただしくおこす。

たへがたきもの 物言いの果てしなき。

にくきもの わる口。 ぐちたわごと。 むだ口。 鼻であいさつする。 いささかなることを言い立つる。

子供をたらす(たらかす)。だましてなだめる、甘言で誘い込む) 

特に子供たちを愛した良寛は、子供たちが素直に育つことを望みました。子供にむかっての戒語はほとんどありません。この一つ(子供のこしゃくなる)は注意を引きます。この言葉には子供達は純朴で素直なままに育ってほしいという良寛の願いが込められているでしょう。

人の身は なら(習)はしものぞ 子どもらを よく教えてよねぎらひ(い)まして

人が育つためには習うことが大切(必要)である、子供たちをねぎらいつつ(優しい慈しみをもって)良く教えてほしいと詠っています。

子供が泣く時にしてはいけない事を次のように上げています。

誰がしたと言う(理由も聞かずに誰か他の人に責任を求める) かんせ(堪忍、我慢)しろと言う(理由も聞かずにただ我慢させる) 明日は雨が降ると言い雨だと言う(涙を雨だと言う、からかって泣き止ます) 灸(きゅう)据(す)えると言う(嫌がるものでおどして泣き止ます) 医者どのが来ると言う(怖がらせおどして泣き止ます) 菓子買うてくるると言う(物を与えてごまかしてしまう)

良寛は、子供が泣く時にはその心(真意)を受け止めて、その理由を良く聞いて思いやりをもって対処することが大切であると考えていたのです。



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良寛は様々な書(言葉)を残しました。それらの言葉は先人の残した言葉からのものも多く見えますが、すべては良寛の思いを込めて書かれました。したがって、いずれも良寛の思いを知る手がかりとなっています。

朝(あした)に道をきかば 夕(ゆうべ)に死すとも可なり

良寛は少年期に学び心に刻んでいた孔子の言葉を残しています。

良寛はその生涯の多くの場面で、良寛の真意を解せない人々の一方的な嘲笑、非難、あるいは中傷をも受けました。

良寛は「俗にもあらず、沙門(僧侶)にもあらず」と言われ、その世間の見方を知り抜いた上で、とりたてて人目を気にして僧侶らしく振舞うという事はしませんでした。ある時は友と、また地元の農夫達と酒を飲み合いました。煙草も吸いました。特に指摘されない限り出された肉料理も魚料理も食べたと伝えられています(無一物で喜捨(恵み)によって生きていた良寛にとって、それらはごく限られた物(量)であったでしょう)。

雁(がん)鴨(かも)は 我を見捨てて 去りにけり 豆腐に羽根のなきぞうれしき (集まりの膳に、在家は肉料理が出されているのに、出家ということで良寛には豆腐料理が出された時の戯歌)

良寛は里に游(あそ、遊)び、子供たちと日がな遊び戯れました。また時には遊女と、おはじきをして遊び戯れました。

自身をまさにその立場に置いて、人々の嘲笑、蔑(さげす)みも耐え忍ぶ生活をつらぬいたのです。

この生(しょう) 何に似る所か 騰々(とうとう)として しばらく縁に任(まか)す 

笑うに堪(た)えたり 嘆(なげ)くに堪えたり

俗にもあらず 沙門にもあらずと

良寛にとって、道をきくとは、良寛の信じた真の仏道をきく(知る、体得する)ことと、その実践であったのです。良寛は生涯をとおして、その自身の求め続けた道を良寛らしく歩き切りました。



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過去は已(すで)に過ぎ去り、未来は尚(なお)未だ来たらず。現在復(また)住(とどま)らず、展転(てんてん)して相(あい)依るなし

良寛は過去は過ぎ、未来は来ておらず、現在もまた止まらずと、この世のあり様をとらえています。

この世と自身の生について、良寛の詩があります。ここに良寛がとらえた仏道の一つの深い真理、空(くう)が示されています。

我が生 何処より来たる 去って 何処にか行く

独り蓬窓(ほうそう)の元に坐して 

兀々(ごつごつ) 静かに尋思(じんし)す

尋思するも 始めを知らず

焉(いずく)んぞ 能(よ)く その終りを知らん

現在 亦復(またまた)然り 

展転 総て 是れ空(くう)

空の中にしばらく 我有り ここに是と非とあらんや

些事(さじ)を容(い)るるを知らず

縁に随(したが)いて まさに従容(しょうよう)す

「この命どこから来て どこへ行こうというのか

小庵の中に独り座って 一心に静かに考えても

その始めを知らなければ だから終りがわかるわけもない

現在もまたそのとおり 止まることなく移り変わる

これ 空(くう)

我も 空(くう)の中に 現れてしばらく在るのみ

ここに是とか非とかあろうか

人間の分別を言わずに これこのまま執着を離れ 

自身の縁起にしたがって この命を生き抜くのみ」



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欲無ければ一切足り、求むる有りて万事窮す

良寛の生き方は無欲知足と言えるものです。良寛は求めるものがあると万事が窮してしまうと言っています。

一、口を守れ(言葉を慎め) 二、心を節せよ(心を安定し思いを慎め)

三、慚恥(ざんち 恥じ入ること)を知れ

四、堪忍(堪えるべき時は耐え忍べ) 五、独り住め(独り静かな時を持て) 六、食を節せよ(粗食せよ、大飲大食を避けよ)

仏遺教経より

良寛が、越後を離れていた法友維馨尼(いきょうに、与板、徳昌寺の虎斑(こはん)和尚の弟子、当時四十歳頃にその師の蔵経購入の資金調達の為に長い旅の途上にあった)に贈ったとされる言葉には、自分自身をしっかり愛しなさいとの、良寛のやさしさがあります。

君は蔵経を求めんと欲して

遠く故園の地を離る

ああ われ何をか道(い、言)わん

天寒く、自愛せよ

維馨尼は良寛が六十五歳の年に亡くなっています(享年四十七歳)

良寛の修行した禅の先達、道元の言葉も良寛に深く影響をあたえました。愛語は良寛によって書き写されました。

愛語というは、衆生を見るに、まず慈悲の心をおこし、

顧愛の言語をほどこすなり。

およそ暴悪の言語なきなり。(中略)

しるべし、愛語は愛心よりおこる。

愛心は慈心を種子(しゅし)とせり。

愛語より迴天の力あることを学すべきなり。(後略)

良寛が祈り(礼拝)の人であったことを示す詩があります。

朝(あした)に礼拝(らいはい)を行じ 暮にも礼拝、旦礼拝を行じて此の身を送る。 南無帰命常不軽、天上天下唯一人。

常不軽菩薩は、法華経の常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさつぼん)に登場する菩薩であり、専ら経典を読誦せず常に礼拝を行じ、どんな人をも軽んぜず礼拝し、悪口にも嘲笑罵倒にも耐えた。

木で打たれ石を投げられると避けて走り、「私はあなた方を軽んじない、あなた方は皆やがて仏となるのだから」と大きな声で唱え礼拝したと説かれています。

「不軽を賛嘆(さんたん)して、覚えず全身草に入(い)る(礼拝する)」

斯(こ)の人以前に斯の人なく、斯の人以後に斯の人なし。不軽老よ、不軽老よ、我れ人をして長(とこしな)えに淳真(じゅんしん)を慕(した)わしむ。

良寛が、愚かに見えるほどに誰に対しても優しい人であったのは、まさに常不軽菩薩のような心を持った人であったからでしょう。



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禅の先達、白隠の言葉から良寛が残したものは、良寛が自分自身を表現するための言葉といえるでしょう。

君看双眼色 不語似無憂

君看(み)よ双眼(そうがん)の色 語らざるは憂(うれ)い無きに似たり

語らざるは憂い無きに似たりと、憂い(悲哀)がないように見えても十分ある(その両眼の色は悲哀に満ちている)ことが示されています。この世を渡る他の人々と同じように、憂いを生涯持ち続けた人だからこそ、その優しい行いや言葉が人々の魂を揺り動かし続けるのでしょう。

あしびきの 岩間をつたふ苔水の かすかに我は すみわたるかも

空庵生活において、冬は雪に閉ざされ、寒さに耐え春を待ち焦がれつつ一人をも楽しみ。春には野に出て花に見とれ鳥を愛し。夏には虫やしらみに苦しめられつつ、虫たちを愛し。秋は知り合いからの差し入れの果物に感激し、木々の紅葉を愛し、夜空の月を愛し。歌や句や書を好み、子供らと手まりをつき、かくれんぼをして無邪気に遊び戯れ、慈しみの心で愛したのです。

道のべに すみれ摘みつつ鉢(はち)の子を 忘れてぞ来し あはれ鉢の子(鉢の子 托鉢用の器)

当時の藩主の誘い(招聘 しょうへい、寺の住職としての招きの申し入れ)に対し、断るのに無言をつらぬいたとも、また下記の句を詠んだのみともつたえられています。

焚(た)くほどは 風がもてくる 落ち葉かな

良寛の生きた時代(江戸後期)は、貧しい農民等も多く、自然災害(冷害、旱魃)等を受けるとその生活は厳しいものとなりました。良寛の知る子供たちの中には、それらの理由からの体調不良や疫病等で早く亡くなる子も少なくなかったのです。そういう子供を思って詠まれた和歌等も多く残っています。

かたらずに あるべきものを ことごとに 人の子ゆえにぬるる袖かな

今日もかも 子等がありせば たづさへて 野辺の若菜をつまましものを

あづさゆみ 春も春とも おもほえず すぎにし(亡くなった)子らのことを思えば(あづさゆみ 春枕詞)

人の子の遊ぶを見れば にはたづみ 流るるなみだ とどめかねつも(にはたづみ 流るる枕詞)

良寛と深いつき合いのあった友、阿部定珍の娘ます(二十歳)が婚家先で亡くなった時

もみぢ葉の 過(す)ぎにし子らがこと思へば 欲り(はり、欲望)するものは 世の中になし

白雪(しらゆき)は 千重(ちへ)に降り敷(し)け我が門(かど)に 過ぎにし子らが 来ると言はなくに(また来ると言わないのなら)

世間においては、僧侶としての地位や名誉や財は一切求めず(見方をかえると、それらから離れる事にこそ苦心していたのです)、世間的意味においては非僧非俗のように過ごしています。

新池や 蛙(かわず)とびこむ 音もなし

風は清し 月はさやけしいざともに 踊りあかさむ老いの名残に

良寛は、踊りが好きでした。盆踊りの輪の中に好んで加わった時期もありました。

いかなるが苦しきものと問ふ(う)ならば 人をへだつる(差別する)心と答えよ



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良寛は様々な才(書、漢詩、和歌等)に優れ、それらを通して多くの人々との交流もありました。

しかし、その心の奥の真意を、正しく理解してくれる人は多くはなかったのです。良寛自身は相手一人一人が皆ちがう機根を持っていることを良く了解していました。したがって相手の資質に応じた接し方(付き合い方)を心がけていたのです。

世の中に まじらぬとにはあらねども 一人あそびぞ我はまされり

良寛は、特に請われない限り、殊更に人に法を説く(説教する)ことなどはなかった(少なかった)と言われています。相手を選ばずに法を説くことは、効果を期待出来ないのみならず逆効果さえあり得るのです。

たとえ法の師弟の関係であったとしても、互いの機が熟した時(機縁)を待たなければなりません。

良寛自身はその点について、貴重な言葉を残しています。

終年遇(あ)わず穿耳(せんじ)の客

良寛は、終年(生涯)、この心(信仰)を真に解する人には会えなかった、と言っています。この言葉は何時のものと特定は出来ませんが、晩年にかけてのものであろうと思われます。ここには良寛の深い心が漂白されています。

次のような長い詞書(ことばがき)を持った短歌も残っています。このような時の良寛は涙をこぼす以外になかったのです。

年を経て遠里(とおさと)より、しばしば法を聴きに通う人あり。己(おのれ)も心ざしせち(一生懸命)なるに愛(め)でて、思いをくだきて諭(さと)せども、そのしるしもなかりけり。思ほえず涙をこぼしぬ。さてかくもな。

いかにして 人を育てむ 法(のり)のため こぼす涙は わが落とすなくに

この時の良寛は人に法を説こうと、思いを込めてどれほど多くの言葉を尽くしても、その真の法を諭すことは出来なかったと記しています。

良寛の眼からは涙が落ちていたのです。



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次の言葉は良寛が、隠棲した弟(由之)に対して送った手紙に書かれていました。

人も三十四十を越えては、おとろへゆくものなれば、随分御養生あそばさるべく候、

大酒飽淫(たいしゅほういん)は実に命をきる斧なり ゆめゆめ過ごさぬよふに あそばさるべく候

七尺(ななしゃく)の屏風(びょうぶ)も 躍(おど)らば(跳び上がれば) などか(なんとか)越えざらむ

羅綾(らりょう)の袂(たもと)(強い生地の袂)も 引かば などか絶え(切れ)ざらむ

己(おの)れ 欲(ほ)り(欲望)するところなりとも 制せ(自制すれ)ば などか止(や)ま(制御し)ざらむ

良寛は大酒(たいしゅ)飽淫(ほういん)は、実に命を切る斧であると言っています。それらは自然に人の欲望するものであるけれども、自制して節制したり止めたりすることもなんとか出来るはずである、と言っています。

以上の言葉は人を愛し、時に酒を愛した良寛の言葉であるからこそ生き生きと胸にせまります。

由之には、馬之助という男子(跡継ぎ)がいました。伝承によると馬之助は一時期放蕩(ほうとう)がひどく、親(由之)をはじめ誰の意見もきかないので、良寛に意見をしてくれるように頼みました。

良寛は、由之の所に三日も泊まったが、馬之助に対しては特に何も言わない。由之はじめ家中の者が、期待はずれに落胆(らくたん)していた。そのまま良寛が帰ることになり、玄関におりた。そこで良寛は馬之助を呼んで、草鞋(わらじ)の紐を結んでくれと頼んだ。馬之助が、めずらしい事だと思いつつも頼まれるままに、良寛の履いている草鞋の紐を結んでいると、その首筋に冷たいものが落ちた。

馬之助が見上げると、良寛はその目に涙をためたまま馬之助を見つめていた。そのまま良寛は何も言わずに玄関を出て去って行った。馬之助の放蕩はその日からぴたりと止んだという。

その時の良寛の心には、目の前の馬之助が若かった時の良寛自身とかさなっていたことでしょう。何も言うことが出来なかった良寛の深い思いと優しい人間性が、馬之助の心に通じたのでしょう。

越後に戻ってからの良寛には、弟妹との交流がありました。中でも寺泊の外山家に嫁いでいた、すぐ下の妹むら(生涯良寛のよき援護者)、弟由之(名主職を継ぎ、やがて隠棲)とは、親しい交際が続けられました。しかし、独り住む無一物の生涯は変わることはありませんでした。

雨晴れ 雲晴れ 気また晴れる 

心清く 遍界 物みな清し

世を捨て 身を捨て 閑者と為り

初めて 月と花とに余生を送る

良寛は、この自然界において夜の闇を照らす月を愛し、人々の心を癒(いや)し楽しませる花を愛しました。

同時に、この月と花という言葉から強く連想されるものがあります。月と花は良寛の他の多くの詩や歌にも表現されており、月は暗闇を照らし人々を導く仏法の光を、花は願う往生の地(仏国土)の蓮華の花を表しているでしょう。それは良寛がその出家、求道の生涯をかけて真に求め続けたものであったのです。


漢詩、和歌、俳句一部文体等、編集 k-style

k-styleにおきましては、良寛の言葉を紹介するにあたり、読まれる方々一人一人に、彼の言葉の真意が正しくとどきますように願っています。

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