k-styleの良寛の言葉(詩歌、愛語、信仰) 後編


こちらでは、前、中編に引き続き、良寛さんとよばれ親しまれている、その人の言葉をとおして、その生涯と思想を見てゆくこととします。


1

師、声韻(せいいん)の事を語り給ひて

かりそめの事とな思ひそ この言は(葉) 言の葉(は)のみと 思ほすな君

言葉が軽いかりそめの事と思えても、言の葉のみとは思わないように、言葉は大きな力を持ち、世や人々を左右する、さらにその音の一つ一つ、またその音の集合した音声の中に法(真理)が作用している。

この和歌は最晩年の良寛(師)の言葉として貞心尼が記しています。良寛は言葉と音声を単なる言葉(音声)としてではなく、その奥に真の力を持つ大きな作用であることを説いています。

その言の葉(言葉)の意味だけに終わらずに、その音声そのものの持つ作用(力)、さらには、それ(音声)を発する人の心さえも大きく作用することが説かれているのです。

良寛は愚かな人(愚なるが如し)と見られるほどに、実際に発する言葉の使用は慎重でした。

言葉は軽々しく扱ったり、不用意に使用することで人の心を大きく傷つけたり、自らを窮地(きゅうち)に陥れることがあります。

あるいは、わずかな言葉が苦しむ人の心を慰(なぐさ)め、傷ついた人の心を癒(いや)し、その命を支える事もあります。



2

貞心尼は、良寛が最晩年(七十歳頃)に初めて出会った四十歳ほど年下の法弟(尼僧)です。(貞心尼は長岡藩士の娘で俗名を”ます”といい、十七、八才で堀之内町の医師に嫁いだが、子供はなく五年で離別(生、死別の二説あり)後、実家に帰り柏崎の洞雲寺で得度し尼僧となりました)

貞心尼にとっては、良寛と直接に出会う以前から良寛その人について(すでに世に知れ渡っていたその言動を通して)よく知っていたでしょう。

良寛が人里離れてこもっていた山あい(乙子神社)から降りて、里(村落)の庄屋、能登屋木村家の裏庭にあった納屋(庵)に移ったことが貞心尼にとってはよい機会(時期)となったのです。

彼女は良寛の仏法の弟子となり、師(良寛)の亡き後に歌集等の編纂を通して師の言葉(思想)を残すことになったのです。貞心尼は勝気な性格で、意思の固い人であったとも伝わっています。当時の女性(尼僧)としては積極的な勇気ある行動によって、最晩年(その臨終の時まで)の良寛の教えを受けることになったのです。

後世その和歌の師としての面(特に恋歌的な表現)が際立って見られますが、良寛によって貞心尼に贈られたその言葉(和歌等)の中に、良寛が何よりも大切なものとして貞心尼に伝えようとした法(真理)の輝きを窺(うかが)い知ることが出来るのです。

そして、それこそが二人の和歌等を研究する時の最大の成果となるでしょう。

貞心尼が良寛に会いに来るのは、当時彼女が庵主として入った福島の閻魔堂(庵)から信濃川の渡しを経て、塩入峠を越えて一日がかりの行程であったろうと思われます(貞心尼は彼女をもよく知る木村家や山田家等、良寛共通の援護者達の家に宿泊したものと思われます)。

その良寛との交流については、貞心尼が良寛の没後に編纂した歌集、蓮(はちす)の露等に記されています。残された貞心尼の和歌のいくつかは、良寛の推敲(すいこう)によって完成されたものであろうと思われます。

良寛、貞心尼贈答の和歌

貞心尼、師に手まりを奉(たてまつ)るとて

これぞこのほとけ(仏)のみちにあそびつつ つくやつ(尽)きせぬ みのり(法)なるらむ  (貞)

つきてみよ ひふみよいむなや ここのとを とをとおさめて またはじまるを  (良)

(突きてみよ 一二三四五六七八 九十 十と納めて また始まるを)

最初の訪問は良寛不在のため出会いが適わずに文(書付)のやりとりがされました。

文とその返し

貞心尼は、手まり遊びが好きな良寛に贈る手毬に添えて上記の歌を置いて帰りました。手まりあそびに仏道をなぞらえて、仏法は求めても求めても尽きぬ(得られない)ものでしょうかと問い、法(ほう、みのり)の教えを尋ねています。

その問いに対して良寛は、手まりをついてみなさい(仏法を修めてみなさい)一から十まで(初めから終わりまで)、十で終わって終わった(得られた)と思ったところから、またさらに始まるでしょうと返しています。

さらに、ここには良寛ならではの、深い意味の掛け言葉をよむこともできます。貞心尼の初めての入門の問いかけに、突き、付きてみよ(つきてみよ)納屋 此処の戸を(なや ここのとを)突いて、私に弟子として付いてみなさいと貞心尼の来訪を歓迎し(求道を勧め)ています。

また、斎む(いむ)には以下の意味があるのです。{@けがれを避けて身を浄め慎む。A仏戒をうける。 (広辞苑より)} したがって(いむなや)とは「良寛が仏の戒をうけて住む納屋」を表すともいえるのです。

仏道を何より大切なものと思うなら、日文(ひぶみ)、日踏み(ひぶみ)を忌む(いむ、嫌う)ことなく(いむなや)、名や(屋) ここ能登を(なや ここのとを)(能登屋木村家の納屋)を訪ねなさい。

十を十(とをと、百回)といえども厭(いと)わずに何ものにも妨げられぬように優先して、文を納めて(日文して)、通って(日踏みして)、修めてみなさい。

もしも、百を知る(修める)と今度は千を知るための修行が始まるのです。仏道修行は一から十へ、百から千へと、さらに次へと絶え間なく(無量に、生涯)続くのです。

ここには良寛を仏道の師と見込んで訪ねて来た貞心尼に対する良寛の強い求道への呼びかけが込められているのです。

こうして最晩年の良寛(師)と貞心尼(法弟)の文(書付)交換および直接対面による四年に及ぶ(良寛の入寂の日までの)師弟交流が始まったのです。



良寛と貞心尼の文(書付)の交換の後、初めて対面を果たした時の贈答歌があります。

はじめてあひ(い)見奉りて

君にかく あひ(い)見ることのうれしさも まださめやらぬ夢かとぞ思う  (貞)

御返し

夢の世に かつまどろみて 夢をまた 語るも夢もそれがまにまに  (良)

貞心尼は師(良寛)に会えたことを素直に喜んでいます。貞心尼の歌には、やっと会えた時の喜びの思いがあふれています。その貞心尼の夢のようとの言葉に対して良寛は、この世が夢のようであるのに、その中(世)でまた夢のような思いを語る、それもこれも今このまま(おだやかに)過ぎ行く夢の中である、と詠っています。

いと懇(ねんご)ろなる道の物語(仏道説話)に夜も更けぬれば、

白妙(しろたえ)の衣手(ころもで)寒し秋の夜の 月半空(つきなかぞら)に 澄み渡るかも  (良)

されど、なお飽(あ)かぬ心地して、

向かひ居て 千代も八千代も見てしがな 空行く月(仏法)のこと問はずとも  (貞)

貞心尼は月(仏法)のことを問わなくても、ずっと近くで見ていたいと詠っています。

心さへ 変はらざりせば 這(は)ふ蔦(つた)の 絶えず向かわむ 千代も八千代も  (良)

良寛は何よりも大切なものはその心の中にあると返しています。その心さえ変わらなければ時を超越して(絶えることなく)それはあり続けると詠っています。



4

冬の初めの頃

君や忘(わす)る 道(仏法)や隠るる この頃は 待てど暮らせど 訪れ(法の目覚め)のなき  (良)

この和歌は、良寛が貞心尼を恋しく待っている心を詠ったものと解されることが多いようです。そういう面を否定してしまうことは出来ません。貞心尼の御返しの歌から察して、貞心尼もそれに近い理解をしていたものと思われます。

良寛は貞心尼が訪れない(文や対面が無い)のは、貞心尼の心に真の仏法への強い求道心が育っていないと感じ、嘆いているのです。さらに、ここでの訪れの持つ深い意味は、良寛が仏道の師として待っていた貞心尼の訪れ(法の目覚め、仏法実在の自覚)だったのです。

御返し奉るとて

ことしげき むくらのいほ(庵)にとぢ(閉じ)られて み(身)をば こころ(心)にまかせざりけり  (人の庵にありし時なり)  (貞)

この貞心尼の御返しの歌は、心は訪ねたかったのに、他の人の庵に居て(出られずに)、訪ねられなかったのです、との言い訳になっています。

この歌に対しては返しがなかったとされていますが、良寛は、この貞心尼の訪ねられなかったことの言い訳の歌に対して、良寛の言葉としては表現のきつい歌で後に返しています。

山のはの 月はさやかに 照らせども まだ晴れやらぬ 峰の薄雲(煩悩)  (貞)

返し

身を捨てて 世をすくふ(救う)ひと(人)もますものを 草の庵に ひま(暇)もと(求)むとは  (良)

良寛は、貞心尼の心は訪ねたかったのに庵に閉じ込められて(やむを得ず)出かけられなかったのですとの言い訳に対して以上の歌で応え(諭し)ています。

久方の 月の光(仏法、仏様の慈悲)の清けれ(純粋であれ)ば (煩悩もそのままに)照らしぬきけり 唐(から)も大和(やまと)も 昔も今も 嘘も真(まこと)も 闇も光も  (良)

晴れやらぬ 峰の薄雲(煩悩)立ち去りて 後の光と 思わずや君  (良)

良寛は月の光と表現して、仏法(真理)を何より大切なものとして求めるよう強く勧めています。この世のあらゆるものを照らしている、どの地(国々)も、過去も現在も、嘘も真実も、世の闇も光も照らし抜いて、すべてをへだてなく包み込んでいる、と説いているのです。

我も人も 嘘も真も隔てなく 照らしぬきけり 月のさやけさ  (貞) 

覚めぬれば(仏法の目覚め) 闇も光もなかりけり 夢路を照らす有明の月  (貞)

貞心尼は、月の光(仏法)はあらゆるものを照らしています、気付いて(目覚めて)みると闇も光も含めて、私のこの世の人生(夢路)を照らしています、と詠っています。貞心尼はこの時はじめて、良寛が月の光にたとえて説いた仏法の真の存在に気付き始めた(目覚めた)のです。

天(あま)が下に 満つる玉より黄金(こがね)より(何よりも) 春の初めの君がおとづれ(法の目覚め)  (良)

この歌も良寛が、貞心尼の庵への訪れを強く求めたものと解されもしますが、たしかに良寛は貞心尼の訪問を心から喜んだでしょう。しかし、もっと深い真意を読むことが大切でしょう。

良寛は、先の貞心尼の歌から、春の初めに貞心尼に訪れた仏法の目覚め(訪れ)をこの世の何よりも貴いものとして、喜んでいるのです。

この時点で貞心尼自身が、良寛の深い大きな喜びの心境をどこまで理解出来ていたのかには、疑問が残ります。しかし、それさえも包み込んだ上で、良寛は貞心尼が少なくとも仏法真理の実在に気付いた(覚めぬれば)と表現したことが何にも変えがたいほどにうれしかったのです。

おそらく良寛は、当時の貞心尼の振る舞いや他の言動からも法の訪れ(仏法実在の気付き)を感じ取っていたのでしょう。

次の歌は、歌集の一連の歌にはありませんが、良寛の心の底からの深い喜びが込められた歌が残っています。

(春にかけて)

あずさ(梓)弓真弓破魔弓しらま(知、白)弓 春のはじめの君が言の葉  (良)(あづさゆみ 春枕詞)(梓弓 古来みこが神霊よびだしの儀式に用いた弓(広辞苑より))

良寛は、貞心尼の言葉(覚めぬれば)に法のおとずれを確信し、真の法を得るために、自身の邪気(魔)を射る弓を手に出来た(知った)、とのたとえを使って貞心尼にたいする心からの祝いの気持ちを表現しています。



5

「ある時(師が)与板の里へ渡らせ給ふとて、ともどち(友達、山田杜皐)のもとより知らせたりければ、急ぎ参(もう)でけるに、明日ははや異方(ことかた、別の所)へ渡り給ふ(行ってしまわれる)よし、人々なごり惜しみて物語り聞え交わしつ」(貞心尼)

良寛はその姿(当時の日焼けした黒い顔、黒い衣)ゆえに、山田家の人々から烏(からす)というあだ名を付けられました、共に居た貞心尼がすかさず良寛の歌に対して誘いの歌を示しました。

げによく我にふさひたる(相応しい)名にこそ

いづこへも 発(た)ちてを行(ゆ)かむ 明日よりは 烏てふ(という)名を 人の付くれ(付けれ)ば  (良)

山がらす 里にゆかば 子がらす(貞心尼)も 誘(いざな)ひて行け 羽よわ(弱)くとも  (貞)

誘(いざな)ひて行かば行かめど ひとの見て あやめと見らば いかにしてまし  (良)

とび(鳶)はとび すずめ(雀)はすずめ さぎ(鷺)はさぎ からす(烏)はからす 何かあやしき  (貞)

貞心尼は人里に行くなら私も伴って下さいと言っています。それに対して良寛は貞心尼と共に歩いてゆくことを、人目があるからあやしく見られ(思われ)たら、どうするのかと躊躇(ちゅうちょ)しています。

この頃の良寛にも異性に対する感情がなかったとは言い切れません。それがもしあったとしても、それこそ、よりいっそう人間良寛を感じます。

ある時、まったく同じ人間同士であるとして、遊女とおはじきをして戯れ、世間の目を一向に気にかけなかった良寛自身は、尼僧と共に歩くことで世間(良寛自身の評判)を気にするようなことはなかったでしょう。

良寛は自分の心配より尼僧である貞心尼に対して、世間にどう思われるだろう(どうするのか)と気遣っているのです。このような歌を詠み合う雰囲気があったことは、二人の間に強く引かれる縁(えにし)があったことが思われます。

貞心尼は、鳶は鳶、烏(黒衣の僧侶)は烏、僧侶(烏)が僧侶(烏)を伴って行くのが何であやしいことがあるでしょうか(怪しむとしたら、怪しむ人の心の問題でしょう)ときっぱりと言っています。その強さの中に、自分自身にもきっちりと言い聞かせるような響きを感じます。

貞心尼にとっても、異性を人として愛する感情もあることが、この世を生きていた生身の人間としては、ごく自然と言えるでしょう。

万一、それが良寛と貞心尼にとって、この世における多少の試練となったとしても、常に起こりえる煩悩(我執、我がものという執着)にとどまらぬこと、法(真理)の実在を悟り、人や命あるもの(自他共に、その真の命)を大切にすること(慈悲、慈愛)こそが仏教(仏陀のおしえ)の真髄なのです。



6

手にさは(触)る ものこそなけれ 法(のり)の道 それがさながらそれにありせば  (良)

良寛は、仏道(法の道)は現世のこの手でつかんだり触ったり出来るものではない、しかも、だからこそ、それ(法の道、真理)はそれとして存在し(それこそが真の実在として)、たしかにあると詠っています。

春風にみ山の雪はとけぬれど 岩間によどむ谷川の水  (貞)

み山べの み雪とけなば谷川に よどめる水(邪念、煩悩)はあらじとぞ思ふ  (良)

君(師)なくば 十たび百(もも)度(たび)数ふとも 十づつとを(十)をもも(百)としら(知ら)じを  (貞)

いざさらば 我もや(止)みなんここのまり 十づつ十をもも(百)とし(知)りなば  (良)

貞心尼は、師(良寛)が居なかったなら仏法をどれほど学んでも実在の真理は解らなかったでしょう。またこれから師が居なくなってしまえば仏法の真髄を知ることができるでしょうか、と詠っています。

良寛は、貞心尼が法のあることを知った(真に気付いた)のであれば、師弟の問答を止めることになってもいい(いざさらば、これからはその真の法と法に気付いた自分自身を大切に)と詠っています。

この時の良寛自身は、現世での限りある命の終わり(自身の死)が近づいていることを感じとっていたのでしょう。

りょうせん(霊山、霊鷲山、りょうじゅせん)の釈迦のみ前に契(ちぎ)りてし ことな忘れそ よ(世)はへだつとも  (良)

りょうせんの釈迦のみ前に契りてし ことは忘れじ よ(世)はへだつとも  (貞)

霊鷲山は、釈迦在世の当時多くの弟子達の前で釈迦が説法をされた所として伝わっています。貞心尼は、過去世の契りをいかに世をへだてても忘れないようにとの良寛の言葉をそのままに、忘れませんと応えています。

秋萩の花咲く頃は来て見ませ 命またくば共にかざさん  (良)

この歌で良寛は、春のおとずれ(法の気付き)を得た貞心尼に対して、次の来訪はもうあわてなくても大丈夫、暑い夏は避けて秋(秋萩の花咲く頃)にでも来てみなさい、それまで生きていることができたら萩の花を共に見よう(仏法を共に語ろう)、と詠っています。

この時点になると良寛は、この世での貞心尼との再会(来訪)を真の(仏道追求の)意味でどうしても必要な事とは思っていないのです。

良寛のこの歌に込められた心境一事を見ても、それまで良寛が貞心尼に真に求めたものが何であったのかが分かります。

されど其のほどをも待たず又とひ(訪い)奉りて

秋萩の花咲く頃を待ちとほ(遠)み 夏草わけてまたも来にけり  (貞)

貞心尼は秋を待てず、暑い夏の盛りに伸びた草を分けて訪ねて来たのです。

秋萩の咲くを遠みと夏草の 露をわけわけとひ(訪い)し君はも  (良)

二人は師弟としての強いきずなで結ばれていたのでしょう。すでに法の気付き(自覚)を得た貞心尼を気遣って、次の来訪は暑い夏は避けるようにと言った良寛でしたが、思いがけずに突然の貞心尼来訪のうれしさを素直に表現しています。



7

良寛の病は冬を迎える頃厳しい状況となりました。

(師の)病、いと重うなり給ひて、薬も飯(いひ)も絶ち給ひけると聞き、詠める

かひなしと 薬も飲まず飯絶ちて 自(みずか)ら雪の消ゆる(入寂、他界)をや待つ  (貞)

うちつけに 飯絶つとにはあらねども 且(か)つ休らひて 時をし待たむ  (良)(うちつけに いきなり突然に)

くるに似て かえるに似たり 沖つ波 (貞)

貞心尼は、師(良寛)は沖の波のように来た処へ帰るのですね、と詠んでいます。

あきらかりけり 君がことのは (良)

良寛は、その通りだよ、君の言葉の通りだよ、と応えています。この時の良寛は、自身が何処から来て何処に帰るのか自覚して(知って)いたのでしょう。

い(生)きし(死)にの さか(境)ひはな(離)れてす(住)むみ(身)にも さ(去)らぬわか(別)れのあるがかな(悲)しき  (貞)

うら(裏)を見せ おもて(表)を見せてち(散)るもみぢ  (良)

[貞心尼は、(この句は、師の御自らのにはあらねど、時に取上げ詠まれた、いと尊し)と付しています。]

貞心尼は、仏道を志し生死の世界を離れたはずであるのに、一時の(この世の)別れ(師の死)を悲しく思う心があることを嘆いています。

それに対して、良寛は、今はそれでいい、その悲しさもそのあるがままでいい、(これからの生涯かけて得られるものをも大切に、、、)今はそれでいい、と返しています。

すでに病の床にあり、寝返りをうつ位しかできません。その様子と同じように、生身の人間としてそのままに死んで逝く、この世に生きてきた心もあるがまま、すべてをさらけ出して散って、この世を去って往(ゆ)く、こだわりを離れた心境(覚悟)を、さらりと表現しています。


良寛の法弟としての貞心尼は、良寛亡きあとも、生涯を仏道に捧げ、その信心を深めていったものとおもわれます。そして亡くなるときには、深い信仰心を持つ人であったことが、その臨終(明治5年、75歳)直前の吟詠(ぎんえい)に表れています。

「たまぎはる今はとなれば 南無仏と いふより外に途(みち)なかりけり」

貞心尼は次の辞世の歌を残しています。

「くるに似て かえるに似たり沖つ波 立居は風の吹くにまかせて」

この貞心尼の歌には、良寛の辞世の言葉「裏を見せ表を見せて 散るもみぢ」の心境に通じる心がうかがわれます。



8

良寛は念仏の人となっていました。

草の庵(いほ)に寝ても覚めても申すこと

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

仏法を知るための道(仏道)としては、仏道の子(し、実践者、修行者)それぞれが様々な路を体験することでしょう。仏陀には八万四千の法門ありと称されます。良寛が、その波乱と清貧の生涯を通して、体得していた信仰は日々の念仏であったのです。

阿弥陀(無量寿、無量光)仏の救い(他力)を求めるこの念仏(祈り)をする事は、自らの(救って頂けると信じる)意志に由ること(真の自由)も必要であって、その意味では自分の心(魂)が発した(自力の)信仰と祈りとも言い得るものなのです。

その意味においては、自力と他力とは紙一重であり、表裏一体とも言えるのです。これより先は言葉の分別より、心(魂)の分別になっていくのです。

謙虚に自分自身が(今、地上にあって表現している精神の)弱さも貧しさも知るところから、本当の向上の為の努力(精進)が始まるのです。

その意味においては、無節操に何をしてもかまわない(唯念仏さえ唱えれば簡単に救われるのだから)などと考える事は的外れと言えます。

その純粋な念仏を唱える事に似合った自分自身の心(精神)になる事が大切な必要条件と言えます。

 

わたしにし身にしありせば今よりは

かにもかくにも弥陀のまにまに

 

良寛に辞世あるかと人問はば

南無阿弥陀仏と言ふと答えよ



9

南無(ナム)とは、帰依(きえ)、帰命(きみょう)を表し、ただひたすら信頼しより頼む事(真の信仰)を意味します。

阿弥陀(アミダ)とは、サンスクリット(インド)語の音をそのまま漢(中国)字に写した言葉です。ミダとは量る(計る、測る)との原意に、アという反対の意の接頭語がついた言葉、量ることが出来ない在り方(無量、無限、永遠の存在者)を表します。

無限、永遠の命(幸せ)、無量寿(アミターユス)

無限、永遠の光(智慧)、無量光(アミターバ)

阿弥陀とは、人の思議を超えた無限、永遠の(完全なる)存在者(無量寿、無量光者)を表します。

阿弥陀仏の浄土(極楽)とは、幸あるところ(仏国土)と表現され、身体の苦しみの無い、心の苦しみの無い、安楽の原因が無量にある永遠のいのちの世界を表します。

したがって念仏の「南無阿弥陀仏」とは、

「無量寿、無量光(無限、永遠の完全なる存在者)の仏様、どうぞ私が御心に適う者、御国に往生出来る者と成ります様にお導きください」

の意となります。

それは真に信じること(信仰心)、人の計(はか)らいや傲慢な思いを捨てた、謙虚な心(魂)を表します。

その日々の生活は、謙虚な心(魂)による、正しい思い(思念)、正しい言語(言葉)、正しい行い(行為)に満たされたものとなる事を表します。

良寛は仏法(真理、摂理)を探求する謙虚な生活を生涯続けました。良寛にとっての仏様(如来)の御国とは、その良寛自身の真の魂(霊魂)の帰るべき世界そのものを意味していたのです。

心もよ言葉もとおくとどかねば

はしなく御名(みな)を唱へこそすれ

 

われながら うれしくもあるか 弥陀仏の

ゐ(い)ますみくに(御国)に いくとおもえば



10

良寛はその晩年に自分の重い病気を知りつつも人々との盆踊りの輪に加わりました。

もろともに 踊り明かしぬ秋の夜を 身にいたづき(疼、痛、病気)のゐ(い)るもしらずて(かまわずに)

君うたへ われ立ち舞はむ ぬばたまの 今宵の月にいね(寝)らるべしや

 

病起

一身寥寥(りょうりょう)耽枕衾

夢魂幾回逐勝游

今朝病起江上立

無限桃花逐水流

「病より起き

わが身は寂しく病に耽っていた

夢の中で魂は勝れた地(幸せな国)を何回となく訪ね遊(游)んだ

今朝ようやく病より起きて、川のほとりに立っている

そこには永遠に絶えることが無いかのように、次から次と桃の花が水面を流れてゆく、あたかもこの世を流れ行く人々の瞬間の輝きのように」



11

梅の花 老いが心を慰めよ 昔の友は今あらなくに

いとどしく老いにけらしも この夏は 我が身一つの寄せ所なき

良寛の孤独は、良寛の生きたその時に、自分の信じたもの、その真の信仰、良寛が生涯を通してつらぬいたその信心(法、真理)ゆえの孤独でもあったのです。

その清貧の生涯は、生身の人間良寛としては、厳しさ、つらさ、みじめさに耐えつづける連続でもあったことと思います。しかし、それと同時に、その清貧の生涯を優游、また優游と味わいながら、その深い境地において、心楽しく生きていたでしょう。

波に乗じて 日に新たに化し 優游として 年を窮(きわ)むべし

良寛は、波に乗じて(この世の流れに従いつつも)日に新たに化し(日々に新たな自分を得るように)、自身の生涯が続く限り優游として窮めつくそうと詠っています。

富貴は吾が事に非ず

神仙 期す可からず

腹を満たせば志願足る

虚名(きょめい)用いて何為(なにす)るものぞ

一鉢 到る処に携え

布(ふ)嚢(のう) 他(また)相宣(あいよろ)し

時に寺門の側(かたわら)に来たりて

たまたま 児童と期す

生涯 何の似る所ぞ

騰々(とうとう) しばらく 時を過ごす

日々の精進を努め続けた良寛は自分をみじめな人間であると思った事は決してなかったでしょう。自ら選んで歩き続けた一本の道(信仰)を、彼は最後の最後まで、心底誇りに思っていたでしょう。

その真の信仰心からあの親しみやすく優しい人間性が生まれました。慈しみ(慈悲、慈愛)に満ちた行い、味わい深い言葉はその人間性から生まれました。

特に素直で純朴な子供たちを愛した良寛ですが、次のような歌も残しています。

老人(おいひと)は 心弱きものぞ 御心(みこころ)を慰(なぐさ)め給へ 朝な夕なに


勝誓寺へ嫁いだ、良寛の親戚筋、(お)くわと言う人は薄命の人と伝わりますが、その人への良寛の一言が伝えられています。

「おくわ、娑婆を(しゃばを、この世の中を)長くみさっしゃいな(長く見なさいな)

おくわに対しての、良寛のこの一言を、おくわは時々人に語ったと伝わります。その後おくわは、やはり弱かった夫を早く亡くしたあと、子供を残して若くして亡くなったと伝えられています。虚弱(薄命)に感じられたおくわへの、良寛の思いやりが感じられる一言です。

この言葉はこの世(娑婆)を生きているすべての人々にも意味の深いものでもあるのです。「この世を見るように」と良寛は言っています。この世の有様をよく見ると見えてくるものがあります。

この世を生きているということは、すべての人がやがて(早晩)老病死の現実に直面します。一人の例外もありません。なぜならこの世のあらゆる物が(人間も含めて)この世に現象して(現れて、形を成して)やがて消える(形を変える)定めにあるからです。

仏法ではそれを無常という言葉で表現します。

それならなぜ人は苦しいこの世(四苦八苦とも表現されます)を生きていかなければならないのでしょう。

この世の有様をよく見る、それは今現在この世に生きている自分自身(心を含めた真の命そのもの)をよく見る事につながります。その視点に真の仏道(真理の追究)はあるのです。


良寛は自分に対して意地悪をする人や、怒っている人にさえも心から優しく接しました。当時の人々は、そんな良寛に最初は驚きあきれ、そして、やがて心うたれたのです。

その良寛の言葉に次のようなものがあります。

相手に気を使い過ぎて、疲れてしまう人、(その誠実さゆえに)つらい思いをしている人から「どうしたらいいのでしょうか」と問われたとき、その人への思いやりをこめて良寛は答えています。

「相手がツンとしていたら、

こちらもただツンとしていたらいい」



12

良寛は、この世に生きている間、財を持たず、力(権力)を持たず、名誉を持たず、ほとんど無一物で生き切りました。

ある意味では、その生き方は世の人々とまったく反対の方向に歩いた人と言えるでしょう。

良寛は世の人々の多くが当然の如く強く求めるもの、より多くより多くと求めるもの(財、名誉、快楽)を、いかにして遠ざけよう(執着を断とう)かと出来る限りの努力を続けた人といえるでしょう。

その生涯は、他の人々の安易な模倣(もほう)を許さない極端で特異な生き方といえるでしょう。

しかし、その生き方の根底にある「我欲へのあらゆる執着を離れ、捨てる」という心境こそが、人の心に真の安らぎをもたらすものであることを、良寛はその生涯をかけて他の人々に問い示し続けたのです。

そういう生涯を通して、この世の人としての喜びと悲しみ、楽しさと寂しさのすべてをその心に刻みつけながら、一本の道(仏道)にしたがって淡々と、その道を愚直に歩きつづけました。

それが出来た良寛は、その先に待っているもの(自身の魂の真の故郷への帰還)をよく知っていたのでしょう。その良寛によって貴重な言葉が残されています。

苦しいかな 三界(さんがい)の子(し)

早晩(いつ)か かっとうの辰(とき)ぞ

箇中(こちゅう)の事を知らずんば 

永劫(えいごう) 枉(ま)げて 辛苦(しんく)せん

この現象世界の三界(一切衆生の輪廻の世界)を流れさまよっている人々に、特に仏道を行く人に、永劫(永遠)にこの苦の世界を迷い続けることがないように、箇中の事(真理、摂理)を知る(悟る)ように努める大切な機縁(その時)を逃さないようにと詠っています。


漢詩、和歌、俳句一部文体等、編集 k-style


k-styleにおきましては、良寛の言葉を紹介するにあたり、読まれる方々一人一人に、彼の言葉の真意が正しく届きますように願っています。

良寛という人は「、、、、、。」何も語らなくても、ただそこに居るだけで、周りの人々を優しい気持ちにさせて、明るく幸せにしてしまう、安らぎの世界が実現されてしまう、そういう人でした。それこそが良寛に接した万人に対する良寛の真の法話(説法)であったのです。

そこにこそ言葉にならない、良寛の優しくあたたかな言葉(理屈や理論では言い尽くせない大切なもの)があったのです。行間を通して、あなたの心にも良寛の真の言葉が届きます様に、、、。

 

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