仏陀(釈迦)の言葉

仏陀(釈迦)の言葉

アーナンダよ、今この時も、
私の滅後も自身を島とし、
自身をよりどころとして他に依ることなく、
法(ダンマ、普遍の法、真理)を島とし、
法をよりどころとして、他に依ることなく、
ひたすら修行にはげむもの
アーナンダよ、
かれらこそ暗闇をこえるものである
   長部経典


呼びかけの相手のアーナンダは
常に仏陀(釈迦)の近くにいました。
仏陀(釈迦)はいよいよ自分の死が近づいたとき、
自分の滅後のために説いたのです。

この言葉は現在の私たちにも大切なものです。
自分を島とし、法を島とし、
他に依ることなくはげみなさい、と説いています。

この島は灯明として表現されることもあります。
そして自灯明法灯明という言葉が使われます。

ひたすら修行にはげむものとは
仏陀(釈迦)の説いた八正道を実践するものをいいます。
暗闇をこえるものとは、この世を含む人間(人霊)としての
輪廻転生の世界(暗闇)から解脱して
真の彼岸(仏の世界)に到るもの、
涅槃(悟り)を得るものを意味しています。


生身の人間としての仏陀(釈迦)と最も多く長く(約二十五年間)
接していたのが直弟子のアーナンダでした。

彼は仏陀(釈迦)の言葉を誰よりも多く
正確に(何処で、どのような時、誰に等ふくめて)
覚えていたといわれますが、仏陀(釈迦)入滅の時は
いまだ悟りには達していなかったと言われます。

それはあまりにも生身の人間としての仏陀(釈迦)に近すぎて、
そちらに目や心が向き過ぎていたためとも言われます。
しかし仏陀(釈迦)入滅後多くの直弟子達によって
その言葉を語り継ぐための
集まりが持たれる直前に突然悟りを得たといわれます。
アーナンダの場合、それは長い年月の生活(精進努力)の
積み重ねの結晶であったでしょう。


最初の経文はみなで口に出して唱える事で
語り継がれる事になりました。
したがって、経文は仏陀の言葉や行いやその思想を
後の人々に語り継ぐために作られたものであり、
その為にこそ使われるのが大切な事といえるでしょう。

空にあるも 海にあるも
はた山間の窟(あな)に入るも
およそ この世に
死の力の およびえぬところはあらず
  法句経


この世における人々の命は、
定まった相(すがた)がなく、
どれだけ生きられるか解らない、
いたましく、短くて、苦悩をともなっている。
   スッタニパータ

この世(物質現象世界)の人々はやがて死すべき存在で、
その(物質現象世界における)生も苦に満ちていることを示しています。

無明におおわれ、愛欲に結ばれて、
流れさまよっている衆生の、
輪廻の根本は知ることができない。
   相応部経典


無明とは、仏陀(釈迦)の悟った法(ダンマ、普遍の真理)を
知ることが出来ないでいること
(様々な煩悩に縛られた状態)をいいます。

愛欲(特に仏教用語的に)はこの世を生きる者だれにも備わった
欲望(人や物事に強く執着する心や色欲等)を表します。
様々な煩悩(ぼんのう、心身を迷わせる妄念)
のうちでも愛欲は特に絶ちがたいとも表現されます。

煩悩の火を消すこと、愛欲を絶つことが出来ないために、
その迷い(無明)のゆえに、
現象する世界(暗闇)を流れさまよっている。

生まれ変わり死に変わりして今ここにあらわれている。
[輪廻転生を繰り返す]ことの本質(根本)を
知ることが出来ないと説かれています。


愛欲については、
この世を生身の人間として生きた
仏陀(釈迦)自身も王子としてその環境は
享楽に満たされていた時期があるのです。

それが欲望である限り、愛欲はこの世の煩悩の一つであり、
その楽しみは長く続くことはなく、永遠に得られる真の幸せ
と言えるようなものではないとされます。

いかにそれが強い欲望であっても、
その執着からやがては離れることが
可能であるからこそ、仏陀(釈迦)はそのための道を示し、
努力をするようにと説いたのです。



ある時仏陀(釈迦)はその弟子
(特に邪念、色欲の強さに悩んでいた)の
「異性に対する邪念(愛欲)の迷いを
絶つのにはどうすれば良いのでしょうか」
との問いに対して、説いています。

そういう気持ちがおこること自体を、
非難したりはしていないのです。
しかし、もしおきた時には
それ(邪念)に一方的に流されてしまうことは
避けるようにと説かれています。


「相手に邪念(欲望)をおこしても、
自制して(その相手への)愛欲の強い執着から離れなさい」


仏陀(釈迦)は相手への邪念(愛欲)の執着から離れること
(自制、コントロール)を説いているのです。

たとえば色欲については、
肉体の(本能的)表面的心の欲望を真の心(自分の仏性、本性)が
時と状況に適応して、その欲望を正しく制御(自制、コントロール)
することを意味します。

ここで特に注意することは、
欲望(色欲等)そのものを、とがめているのではありません。
正しく制御(コントロール)された欲望等は、
それが真実の愛情(慈悲、慈愛)に裏打ちされたものであり、
時と状況に適していれば問題ではありません。

仏陀(釈迦)は、邪念としての色欲について説いているのです。
それが邪念(よこしまな思いである)と自覚したなら、
その時と状況において、良くない邪念としての欲望であったなら、
その相手に対する(愛欲)強い執着から
離れなさい(自制、コントロールしなさい)と、説いているのです。

それこそが、その時の自分自身が(過ちを起こさない)救いともなり、
その相手(他者)に対しても、
正しい思いやり(慈悲、慈愛)の行いとも言えるでしょう。


仏陀(釈迦)の説いた道(仏道、八正道)は、
実践者(正しい道を行う人)となって
日々の生活(努力)をすることが説かれているのです。

八正道によって説かれているのは
その(法、真理にかなった)正しい道を、
身体で行い、言葉で表し、心で思いなさい
(身口意、しんくい)においてするようにというものなのです。
そのための努力をしなさいと説かれているのです。


愚かなるものも 
おのれ愚かなりと思うは
彼これによりて また賢きなり
愚かなるに おのれ賢しと思うは
彼こそ まこと 愚かといわるべし
   法句経 63
自分を愚かであると思う人は、それを知っている(無知の知)ゆえに、
賢い人であると説かれています。
また、愚かであるのに自分は賢いと思う人は、
真に愚かであると説かれています。


人もし常に目覚め
昼にまた夜に 学びにいそしみ
涅槃(ねはん、悟り)を得んとつとめなば
もろもろのまよいは尽くべし
  法句経 226
人は無明からの解脱(もろもろの迷い<煩悩>から脱すること)が
可能である、と説かれています。

そのためには、法の学びにいそしみ、努力することが求められています。
常に目覚めとは(眠っている時以外)
朝起きた時から、夜眠りにつく時まで、
常に心(意識)を正しく安定した (目覚めた) 状態で、
涅槃(ねはん、悟り)を求める努力をすることが説かれているのです。


心を正しく安定した状態とは、どのような状態をいうのでしょう。
仏教では、戒を守った生活をする努力が説かれています。

不殺生(殺さない、傷つけない) 
不偸盗(盗み取らない) 
不邪淫(邪な性行為をしない) 
不妄語(嘘をつかない、悪い言葉を使わない) 
不飲酒(酒や心を乱す物に頼らない、おぼれない、心身を奪われない)
五戒


そのように出来る限り心身の安定した状態で
悟り(涅槃)を求める努力をするようにと説かれているのです。

人はそれぞれの違った環境と個性とを持って生きています。
したがって、すべてを守りきる事が難しくても、
今の自分自身にとって、出来る限り最善となる心身の安定に
努めることが大切でしょう。

仏陀(釈迦)のもとに集まっていた修行者が数を増すとともに、
守るべき戒や規則等も増えていきました。

なぜ多くの戒や規則等が必要となったのでしょうか。
多くの修行者(集団)の生活には、
それぞれが守るべき約束事(戒や規則)が
安定した日常を生みだす、という面もあります。
また、だれもが常に正しい生活を行えるのであったなら、
多くの戒や規則は必要とはされなかったでしょう。

仏道修行者として行うべき正しい生活は理想であっても、
生身の人間としてこの世に生きている限り、
身口意における大小様々な罪を犯すのを
完全に止めることは難しい事であるからです。


正しいことをして間違ったこと(邪なこと)をしない
というたった一つの戒であっても、
それを守り切れる人はいないであろうとさえ言えるでしょう。

そのような生活を続けることが
通常不可能と言えるほどに難しいからこそ、
常に努める(努力する)ことが求められているのです。
その人間の努力を助けることに戒や規則等の真価があるのです。



仏道では、人は皆それぞれの罪業(ざいごう)を
背負って生きているとも表現されます。
したがって仏道ではまず自分自身を知るようにと説かれます。

自分の心(意)や身体で行ってしまった罪、
邪な思いや行いは、気付いた時に
直ちに懺悔(さんげ)する(悔い改める)ことが求められます。

懺悔するとは、自分の迷いからおこした過ちを
心(真)から悔い(反省し)、
二度とくり返さない努力をすることを意味します。



一番大切なものはその目標(理想、涅槃)に向かって努力する
今現在の自分自身の中にあるのです。

人はだれも皆、今現在この時に(常に)、
正しい道を求め、法(真理)を知り、
真の自分を得ようと努めることによって、もろもろの迷いが尽きる
(解脱する)可能性を持っている、と説かれているのです。


人の生をうくるは難く
やがて死すべきものの 
今いのちあるは有難し
正法を耳にするは難く
諸仏の世にいづるも有難し
   法句経 182


人間の生を受けることは、得難く、
尊いことである、と説かれています。
苦に満ちた私たちの生も、
一面では得ることが難しくて、
尊い大切なものである。

ましてや、今現在生きていることは、
それ自体が得ることが難しくて尊い
大切なものである、と説かれています。

正法(ダンマ 真理)を聞く事、
諸仏の世に出る事も、
得る事が難しくて尊いことである、
とも説かれています。
私たちはこの世に人間としての生をうけ、
今生きています。
そして仏法に出会ったのです。
それは、その事自体が
得ることが難しいことと説かれています。


私は私に体得されたこのダンマを尊重し、
それに安らっていこう。
   相応部経典

仏陀(釈迦)は解脱し体得したダンマ
(ダンマは仏陀(釈迦)が現れても現れなくて
も普遍に変わらずあるもの
[普遍の真理]) をよりどころとして、
80歳にしてこの世を去るまで、
人々にその光明を説きつづけました。

仏陀(釈迦)の生きたのが約2500年前であるから、
その説いた真理は古いものである、
ということは有り得ないことです。
ダンマ[普遍の真理(摂理)]は
時間に左右されず、
永久不変であって
はじめて真理と呼べるものであるからです。
したがって、そのダンマは仏陀(釈迦)以前も、
また私たちの生きている現在以後も、
変わることのない真理である、
ということになります。


彼岸にいたる者は少なく、
此岸にある人々は、ただ岸にそって走るのみ。
   法句経

解脱して真の彼岸に
いたることこそが仏教者の目標になります。
それはすばらしいもの、
どうしても手に入れたいもの、
この身に体得したい
真に価値あるものとされます。

仏陀(釈迦)はそこに至る者は少ないと言っています。
多くの人々(ほとんどの人々)が
彼岸に渡ることなく、
この此岸の側にいるという事でしょう。
この世に生きているわれわれにとっては、
此岸(現世を含む人霊的輪廻転生の世界)
のほうがらくで、一見楽しくて、
さも喜ばしそうなものに見えるのでしょう。


しかし、仏陀(釈迦)の教説のように、
ひとまずこの世は苦の世界
(人間[人霊]としての輪廻転生の中)
と知らなければならないのでしょう。
仏陀(釈迦)は29歳前後に出家し
その後解脱したとされています。
仏陀(釈迦)の生きた当時の社会慣習として、
求道者は、生涯の内に林住期
[バーナプラスタ]として家を捨て
宗教的な求道生活をすることがありました。

仏陀(釈迦)が求道生活に入ったのが、
若すぎるとは言い切れません。
仏陀(釈迦)が80歳まで生きたというのは、
当時としては非常に長命であったのです。

この世の命(肉体)を、
大切に生きたといえるでしょう。
晩年その身体を、こわれそうな荷車にたとえて、
補修しながらやっと動かしているのだよ、
と言ったと伝えられています。

多くの人々がもっと若くして亡くなっていたのです。
求道生活に入ったからといって、
いつ満足のいく成果(悟り)が
得られるかわかりません。
求道を志した人にとっては、まさに、
志を持ったその時に
求道生活に入ることが望まれるのです。
したがって、仏陀(釈迦)の出家は、
家族にとっては唐突であったのですが、
ある程度当時の社会の慣習にそったものでした。

当時の社会環境においては、
出家を果たした人々(求道者)は、
乞食(こつじき)によって食を得る事が可能でした。
したがって、彼らは、真の法を体得する
(求める)努力をする為の、
質素な生活が可能であったのです。
(彼らは、物を生産する事は無く、
財産を持つ事も無かったのです)


時代も環境も違う現在の私たちが、
同じような出家を果たす事は、非常に難しいでしょう。
その精神と同じような生活をする事は、
まったく不可能ということでもないのでしょうが、
困難な事と言わなければならないでしょう。
現在の求道者(道を行う人)にとっては、
執着するものはより多く存在します。

仏陀(釈迦)当事の人々は、出家により社会的地位も、
社会的人間関係も、名誉も、財産も、
家族も事実上離れ去ることになったのです。
求道のためにそれらへの執着から
離れる事を目指しました。

現在の私たちが、仏法の体得を目指す場合には、
少なくともそれらに対する執着(強いこだわりを持つ事)から
少しでも離れる事が、第一歩と言えるのではないでしょうか。


激しい苦行によっても
私は通常の人や法を
超越した最高の知恵に
到達することが出来なかった。
悟りにいたる真の道があることに気づいた。
   中部経典

道の人よ、
道を学ぶ人が実践してはならない
二つの極端がある。
一つは、もろもろの欲望のままに
楽しみにふけることである。
いま一つは、みずから身体を苦しめ
さいなむことにふけることである。

人格を完成した人は
この両極端に近づかないで、
中道(適切な正しい道)を悟ったのである。
   相応部経典


道の人とは、仏道(仏法)を学ぶ人に対して
語られたものです。
道を学ぶ人は、二つの極端な生活を
さけるようにとしています。

一つは、享楽の生活にふける事です。
これは生活に楽しみを持つなということではなく、
享楽にふけることなく
節度をもつことが大切という事でしょう。

もう一つのさけるべき極端な生活とは、
自らの身体を苦しめるような苦行生活のことです。
以上の極端な二つの生活はさけるようにとしています。
まさに、仏陀(釈迦)自身が二つの道を体験した上での言葉なのです。

王子として、すべてのものに恵まれて、
享楽にふける、ぜいたくな生活において、
真の満足は得られなかった
(精神においては苦悩していた)のです。

また、苦行生活においても、
真の満足は得られなかった(心は安定しなかった)のです。
そこからは、解脱への道として
八正道(適切な正しい道)が示されています。


財は 心なきものを害えども
彼岸を求める者をば害せず
財の むさぼりによりて
心なき人は 敵を傷つけるがごとく
おのれをばそこなう
   法句経 355

たとえ黄金や銀の山があったとしても、
またそれを二倍にしても、それだけでは、
一人の人を満足させることはできない。
このことを知って、平らかな心で行うべし。
   相応部経典


金や銀の山があり、それを二倍にしても、
一人の人間の欲望をも
満足させることができないとは、
人間の財への欲望の持つ深い意味を示しています。

人間の財への欲望の持つ深い意味を自覚し、
その財への欲望を正しく制御(コントロール)し、
心の安定した生活を送るべきであるとされます。


怒りなく、制御し、正しく生活し、
完全な知恵をそなえ、
解脱して寂静となったもの、
このような人に、どうして怒りがおころうか。
怒るものに怒り返すことは、
さらによくないことだ。
怒るものに対して怒り返さない人は、
二つの勝利をうる。

他人の激怒していることを知って、
正念をもって自身を静めた人は、
自分と他人との双方を利益している。
彼は自分と他人との双方の医師であり、
ダンマ(真理)を知らないものたちだけが、
彼を愚か者と思うのである。
   相応部経典


怒りをなくすこと、また怒りに対して
怒りをもって返さないことが
真の勝利(利益)を得ると説かれています。
怒りを制御するとは、自らを正しく自制(コントロール)する
強い自制心を示しています。
そのような人は自分と他人との
双方の医師(救う人、導く人)であると説かれています。
そのような人を愚か者と思う人々は、
ダンマ(真理)を知らない人とされます。

いかなる言葉を聞くとも なんじ もし
毀(こぼ)たれたる鐘のごとく 黙しなば
かくてなんじに 怒りは来たらざるべし
これすでに 涅槃に到れるなり
   法句経


一方的な怒りの言葉等を受けたとき、
これを受け取らないことを、
黙すという形で表しています。
そしてそれにより怒りは来ることなく、
それはすでに涅槃に到ると。
また仏陀(釈迦)は次のようなたとえを使って
法を説いたといわれています。

受け手が受け取らなかった贈り物は、
だれに属するか(だれのものか)。
それは送り主のものである。
理不尽な言葉や怒りの言葉も、
同じように受け手が受け取らなければ、
それを言った者に属する
(送り主のものである)。


怒りたけった人は、
善いことでも悪いことだと言いたてるが、
のちに怒りがおさまった時には、
火に触れたように苦しむ。
   釈迦自説経

怒りをおこすと自分に返ってくることを、
仏陀(釈迦)はたびたび説いています。
怒りをおこさないことが
理想の境地とされますが、
おきてしまった怒りは、
自分で制御して鎮めることが求められます。
怒りたけった人には、
のちに大きな苦があることが説かれています。


小なりとも、火は軽んずべからず。
   雑阿含経46

仏陀(釈迦)は火をたとえにして、様々なものにたいして
軽んずるという事をいましめています。
それは、少しならと怒りを起こす事にも、
小さな悪事をする事にも通じます。
あるいは人(弱い、若い等)に対しても、
軽んずることがいましめられています。



あるとき仏陀(釈迦)は質問を受けます。
「世間では多数の弟子を持つ師の多くは
老人であるが彼らは最高の悟りを得た
とは言わない。あなたはまだ若い、
なのに最高の悟りを得たと言うのですか。」

「世間には、若いとか小さいからと
軽んじてはならないものがあります。
クシャトリヤ(王族)は若いからと
軽んじてはなりません。
蛇は小さいからと
軽んじてはなりません。
火は小さいからと
軽んじてはなりません。
それと同じように求道者は
若いからと軽んじてはならないのです。」
   相応部経典


この質問は、仏陀(釈迦)の成道後早い時期に、
当時のコーサラ国のパセーナディ王によって
されたといわれます。
それに対しての仏陀(釈迦)の答えが、
このようなかたちでなされました。
この答えの表現は、
王族等当時の世相を反映していますが、
これを聞いて国王は仏陀〈釈迦)に帰依したといわれます。


自分を苦しめず、
また他人を害しない言葉のみを語れ。
これこそ実に善く説かれた言葉なのである。
真実は実に不滅の言葉である。
これは永遠の理法である。
立派な人々は、真実の上に、
ためになることの上に、
また理法の上に
安立しているといわれる。
安らぎに達するために、
苦しみを終滅させるために、
仏の説きたもうおだやかな言葉は、
実に諸々の言葉のうちで最上のものである。
  スッタニパータ 451〜454


自分を苦しめない、
他人を害しない言葉だけを語るようにとは、
いつでも出来そうであっても、実行は困難なことです。
それほどの注意と、人への思いやりをもって
語るべき大切なものが言葉であると説かれているのです。

正しい理(ことわり)を語り、偽りを語らず真実を語るように、
真実は不滅の言葉であり、
それが永遠の理法であると説かれています。

仏陀(釈迦)はこの世の人々の安らぎの為に、
苦しみからの救済の為に、おだやかな言葉によって
最上のもの(法、真理)を説いたのです。


              

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