仏陀(釈迦)の教え(思想)

仏陀(釈迦)の教え(思想)

仏陀(釈迦)の教えは、その時その場所その人(人々)の為になされました。
仏陀(釈迦)の説法は対機説法、あるいは応病与薬と言われます。
こちらでは、その仏陀(釈迦)の教え(思想)の真髄を目指すこととします。



梵天勧請[ぼんてんかんじょう]の物語
仏陀(釈迦)は自分の悟ったダンマは深甚微妙(あまりにも深く、微妙であり人々の推論の域を越えている)であり、人々には理解されないであろうと考え、それを人々に説くことは出来ないとそのまま涅槃に入ってしまおうと考えていた。

  (涅槃)〈ねはん〉[ニルヴァーナ] とは  「(火が)消える」の意味から派生した言葉で、煩悩の火が消え、悟りの境地に達したことをいう。また、輪廻からの解放、すなわち解脱を意味する。 

そのときの仏陀(釈迦)がそのまま一言も説くことなく、説法をあきらめて涅槃に入ってしまえば、仏陀(釈迦)一人の悟りであり、人々には伝わる事がない。
それを知ったブラフマー(梵天)をはじめとする(仏教的世界観上の)天上の神々が、再三お願いして、やっと仏陀〈釈迦)は説法を始めることを決意した。

仏陀(釈迦)は以前6年の間共に苦行した友人(仲間)であった5人の修行者にその教えを説いた。その説法をうけた5人が仏陀(釈迦)の最初の弟子となった。

仏陀(釈迦)はこの世に生きる事は苦であるという真理から説いていきます。
四苦八苦
生(生まれて生きる事は苦である)
老(老いる事は苦である)
病(病む事は苦である)
死(死ぬ事は苦である)
愛別離苦[あいべつりく」(愛する者と別離する苦しみ)
怨憎会苦[おんぞうえく](怨み憎む者と会わねばならない苦しみ)
求不得苦[ぐふとくく](求めるものが得られない苦しみ)

五陰盛苦[ごおんじょうく](人間の心身を構成する五つの要素の苦しみ)
( 1 いろやかたちのあるもの<色>)
( 2 感受作用<受>ものを感じる作用)
( 3 表象作用<想>ものの印象を結ぶ作用)
( 4 形成作用<行>意思等の心の作用)
( 5 識別作用<識>認識する心の作用)

四つの真理(四諦のおしえ)
1 苦諦(一切は苦であるとの真理)
2 集諦(苦の生起の原因の真理)
3 滅諦(苦の消滅の真理)
4 道諦(苦の消滅に至る道の真理)

この苦の消滅の為にどうすればいいかについて仏陀(釈迦)は八正道を説いています。
正見[しょうけん](正しい見解)
正思[しょうし](正しい考え)
正語[しょうご](正しい言葉)
正業[しょうごう](正しい行い)
正命[しょうみょう](正しい生活)
正精進[しょうしょうじん](正しい努力)
正念[しょうねん](正しい思念)
正定[しょうじょう](正しい瞑想、精神の統一)

以上の教えは仏陀(釈迦)の初転法輪[しょてんぽうりん](仏陀が悟ってから、はじめて説かれたもの)の概要です。
実際にはもっと日常の平易な言葉を使い、たとえ話等を使いながら話を進めたのだと思います。
苦を滅する方法として説かれた八正道において正しいとは、かたよらない、適切なの意味をふくむものと思われます。(それは普遍の法に照らしても正しい(適切)という深い意味もあるものと思われます。)

八正道については、上記のように整理された言葉をみるとそう難しいことのようにはみえないかもしれません。
しかし、実際には我々が日常生活のなかで仏陀(釈迦)の説く八正道を真に実践することは容易ではないように思われます。 (たとえば正見には単に物を見るということではなく、この世は無常であるとの見地[見解]から正しくものごとを見ることもふくまれるでしょう。)

それゆえにこそ、八正道は目指すに値するすばらしいものなのではないでしょうか。
涅槃を求める人(求道者)にとっては少しずつでも八正道にそうように努めることがまず大切な第一歩ではないかと思われます。

仏陀(釈迦)の悟ったダンマ〈普遍の法)は、仏陀(釈迦)によって作り出されたものではなく、仏陀(釈迦)が現れる現れないに関係なく、普遍に存在する真理であるということが大切です。

それは、仏陀(釈迦)自身がそれ(普遍の法、真理)を体得した〈悟った〉と語った、ということが、仏陀(釈迦)を研究するうえで大切なことに思われます。



真理について

見よ、神々並びに世人は、非我なるもの(現象界の我)を我と思いなし、現象している個人(名色)に執著している。
「これこそ真理である」と考えている。
或るものを、ああだろう、こうだろう、と考えても、そのものはそれとは異なったものとなる。
何となれば、その者の、その考えは虚妄なのである。過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。

安らぎは虚妄ならざるものである。
諸々の聖者はそれを真理であると知る。
かれらは実に真理をさとるが故に、快を貪ることなく平安に帰しているのである。
以上  スッタニパータ 756〜758より
この世に現象する個体(名色)に執著し、これこそ真理と考えている神々と世の人々について、その考えは虚妄である、なぜなら過ぎ去るもの(現象界の個体)は虚妄なるものであるからと説いています

【この概念は現在の多くの日本仏教(中国経由の北方(伝)仏教、大乗仏教とも呼ばれます)の中心的思想の一つである空(くう)を表しています。
それはある(有)でもなく、ない(無)でもなく、空(現象しては過ぎ去るもの)としてその深い意味をとらえた代表的な言葉として 色即是空(しきそくぜくう) 空即是色(くうそくぜしき) 色(名色)はすなわち空である 空はすなわち色である と表現されています。】

そして、安らぎは虚妄ではないものであると、それを聖者は知り、平安の境地にあると説いています。
たしかに世の人々はこの現象界(この世)のものや出来事に執著して生きています。
日常の生活がそのようにして成り立っているともいえるでしょう。
しかしここで説かれている大事な事はこの世を含む現象界のものや出来事は常に変化してやがて消える(過ぎ去る)ということでしょう。


真理を知っている人を聖者と呼んでいます。
真理(普遍の法)は知る事が難しいとしても知りえるものと説かれているのです。


ここにおいての神々とは仏教の用語における、六道輪廻 (天、人間、阿修羅、畜生、餓鬼、地獄)のなかの天に住む神々を意味しています。

これらの表現は人間の真のいのち(命)の状態を象徴的に表しているとみられます。
地上(現世)の人間に対しての天とは(通常の)霊界の霊人(基本的善霊)の住む世界を表します。

その他の阿修羅、畜生、餓鬼、地獄等の表現は人間の死後の霊人(未熟霊、邪悪霊)の試練界等での様々な霊的状態を表しているでしょう。
従って畜生との表現も阿修羅や餓鬼と同じように象徴的な言葉であり、地上の肉体動物を表した言葉ではないのです。

ここに輪廻転生(再生)説に対する誤解が見られるのです。
畜生という言葉一つから人間が地上肉体動物に生まれ変わる意味と理解する事によって、この説が(人間の理解の及びうる)真実から遠く離れた説と決め付けられる事になりかねないのです。

ここでの畜生という表現を地上動物の意味に理解する方が無理があります。
ここに表現されている人間以外(天、阿修羅、畜生、餓鬼、地獄)は総てが霊的状態(霊人)を象徴的に表しており、当然畜生という表現もその意味に理解する事が理に適っているのです。

もちろんですが、人間も(地上界にいる間は人間としての)肉体を持った(宿った)霊であり、霊人的輪廻転生(再生)の中に入っているのです。

阿修羅からは人間霊魂の憤りと怒りに、非常に強く執着した状態等が連想されます。

畜生からは人間霊魂の無知と性的欲望等に、非常に強く執着した状態が連想されます。

餓鬼からは人間霊魂の飲食欲と物欲等に、非常に強く執着した状態が連想されます。

地獄からは人間霊魂の怒りと憎悪と強欲と無知と恐怖等の総体的な非常に強い邪悪性が連想されます。

これらの表現は地上域での地縛霊や浮遊霊状態や、中間域、幽界、霊界等での試練的次元(階層)等での霊魂の状態を象徴的に示しているものと考えられます。

それらの様々な状態を、地上の言語では容易(簡単)には説明出来ない為に、象徴的に表現していると考えられます。

霊性や霊的世界の特殊性等についての(詳細の)説明は、かえって誤解や曲解さえ招きかねないために、控えざるを得ない面もあるものと考えられます。


したがって天(霊界)に住む神々(霊人達)も、地上界の人間(霊が人間肉体に宿っている人)も、他の状態や境涯にある未熟霊(霊人)や邪悪霊(霊人)も、いずれも輪廻転生(霊人としての地上界への生死を繰り返す)をしている存在であって、いまだに解脱と呼ばれる、永遠のいのち(命)の世界(真の仏国土、超越界)への浄化向上を果たしきってはいない(その途上にあるもの)とされているのです。


なお仏教用語における十界として示すこともあります。

一は仏様、二は菩薩(衆生救済の為に地上界に現れる存在者)、三は縁覚(仏様の教えを正しく修行するもので再生を必要としない存在者)、四は声聞(仏様の教えをよく聞き忠実に実行するもので再生を必要としない存在者)、これに輪廻転生(生死)を繰り返す六道の六つがきて十界とされます。

十界互具の思想においては、このように説明されます。
人間は仏様や仏様により近い気持ちも心にいただいている、しかし、地上をさ迷ったり、様々な試練界、地獄等に落ちるような気持ちもどこかに持っている十界のすべての気持ちを持ち合わせている。
だからよく注意して間違った事をなさないように生きていかなくてはいけない。
この生き方は仏陀(釈迦)の説く八正道につながるものと思われます。
 

仏陀(釈迦)はこの真理(法、摂理)は実に悟りがたいと何度も説いています。 
以上のような説明も言葉を使ったものであり、これは言葉の研究のみに終わってしまう可能性さえあります。
言葉は大切な伝達手段ではありますが、その意味の正しい理解には常に困難さがあり、限界もあることを承知しておく事が大切です。

言葉の持つ真の意味を正しく(正しい心を用いて)知ることにより一人一人に応じて真理(普遍の法)に近づく手がかり(知恵)を得ることにつながるのではないでしょうか。



仏陀(釈迦)は苦を滅する方法として八正道を説いています。
その八正道の1つ正語ということについて言葉を大切に使う事を繰り返し説いています。

多くの言葉を軽く扱う人々の挑発的な言葉や、弟子たちの価値(求道上)のない議論や質問(世界は有限か無限か、霊と体は一体か別々のものか、師は涅槃(死)後も存在するのかしないのか)等に対しては無記(肯定も否定もせず)で応えることもありました。

それ(無記)は仏陀(釈迦)自身が真理は説き難いと考えていることと、言葉をいかに大切にしているかを示すひとつの方法であったと思われます。

特に、無限(永遠)についての表現、霊(霊魂)についての表現、死後(異次元界)についての表現等は、この世の言葉を使っての表現に限界があるのです。
したがって、聞いている人間によっては大きな誤解を招きかねません。


仏陀(釈迦)は相手の機根に応じて法を説きました。
したがって、仏陀(釈迦)が知っているか知らないかによらずに、
その相手にとって、真に価値のある言葉(あるいは無記)を用いたのです。

自己の身体(この世に現象する固体)を断滅(執着を離れ解脱)することが「安楽」である、と諸々の聖者は見る。正しく見る人々のこの考えは、一切の世間の人々と正反対である。

他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。他の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。解し難き真理を見よ。無知なる人々はここに迷っている。(761)(762)

覆われた人々には闇がある。正しく見ない人々には暗黒がある。善良なる人々には開顕(かいけん)される。あたかも見る人々に光明のあるようなものである。理法(真理の法)が何であるかを知らない愚人は、安らぎの近くにあっても、それを知らない。(763)

生存の貪欲にとらわれ、生存の流れにおし流され、悪魔の領土に入っている人々には、この真理は実に覚りがたい。
諸々の聖者以外には、そもそも誰がこの境地を覚り得るであろうか。この境地を正しく知ったならば、煩悩の汚れのない者となって、まどかな平安に入るであろう。(764)(765) 以上 スッタニパータ

こちらでは苦しみと安楽の持つ深い真理が説かれています。
理解し難い真理と表現されますが、善良な(素直な善意の正しい心を持った)人々には闇の中の光明のように示されるとあります。

その他の人々は、その(やすらぎ、光明)の近くにいても知ることが出来ないと説かれています。
それらの人々は、生存(輪廻する現象世界)の欲望にとらわれて(強く執着して)おし流されている、故に真理は覚り難いと説かれています。

しかし、いかに困難であっても真理(理法)は覚り得る(可能な)ものとも示されているのです。
仏陀(釈迦)は真理(ダンマ 普遍の法)を悟った〈体得した〉と語りました。
そして諸々の聖者は正しく知っている(悟っている)と説かれています。
諸々の聖者とは仏陀(釈迦)のように悟った人々(聖者)がたくさんいることを表しているのです。



世界は未来永劫に存在するのでしょうか。それとも限りがあるのでしょうか。
世界には果てがあるのでしょうか。それとも無限でしょうか。
霊と体は一体のものでしょうか。それとも別々のものでしょうか。
等の質問に対して、ある時仏陀(釈迦)はたとえを使って応えたと言われます。

毒矢のたとえ
「もしここに一人の男がいて毒矢で射られて苦しんでいるとしよう。
家族の者が医者を呼び医者が矢を抜こうとすると、彼が『矢を抜いてはならぬ、その前にこの矢を射た者は何者か、その矢はどこから射られたのか、その矢は何でできているか、その矢を作った者はだれか、それらを知ってからでないと矢を抜いてはならぬ。』と言ったとする。

するとおそらくこの男は、それらの答えを得られないうちに死んでしまうであろう。
これと同じように、大切な事は世の中のことわりをあれこれ詮索することではなく、現実に悩まされている苦そのものを除き去ることである。

私の説くのはいっさいは苦であること、その苦には原因があること、その苦の原因を滅すべきこと、そして苦の原因を滅するための道があること、これらの真理である。
私は(今)説くべきことのみを説くのだ。」
このたとえによって示されているのは、大切な事は苦を滅すること、そのための道(八正道)があること、この時の仏陀(釈迦)はその真理を説いたということでしょう。



七仏通戒偈
すべての悪しきことをなさず、良いことを行い、自己の心を清める(浄める)こと、これが諸仏の教えである。
以上  法句経(ダンマパダ)

諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教[漢訳]
 「しょあくまくさ、しゅうぜんぶぎょう、じじょうごい、ぜしょぶっきょう」 悪い事をしないで、善い事を行い、そしてその心を浄める(清める)それが諸仏の教えである
どのように生活(行動)すれば良いかを表していますが諸仏(七仏 多くの仏陀)の教えとされています。
悪い事をしないで、善い事をしなさい、と説いています。

そしてその自らの心を浄め(清め)なさいとは、善い事をして悪い事をしないという外に見える行為だけではなく、内側の心が浄らか(清らか)であることの大切さが説かれています。

仏教用語に六波羅蜜 (ろくはらみつ) という言葉があります。(波羅蜜はパーラミターから漢字にあてた言葉で彼岸に渡ることを意味しています。)

布施 ふせ (人に善い事をほどこす たとえば和顔施はおだやかな笑顔を向ける事 心施 財施 法施 無畏(むい、恐れを除く)施等)

自戒(持戒) じかい (不殺生 不偸盗 不邪淫 不妄語 不飲酒 殺さない、傷つけない 盗まない 邪な性行為をしない 嘘をつかない 悪い言葉を使わない 酒や薬(心を乱すもの)に頼らない、おぼれない、心を奪われない等、自分を戒める)

忍辱 にんにく (耐え忍ぶべきことを耐え恨みを残さない)

精進 しょうじん (努力すべきことを一生懸命に続ける)

禅定 ぜんじょう (自ら精神を正しく安定させる)

知恵 ちえ (正しい知恵を得ることを目指す)




一人で歩むということ

旅に行きて 己に勝り はた 己に等しき人に 逢うことなくば
むしろ一人行くことに 心をかためよ おろかなるものを 伴侶(とも)とすべきにあらず
以上  法句経 61(ダンマパダ)
仏陀(釈迦)はたびたび一人で歩む(行く)ことを説いています。
ここでは求道の旅にでて(道を求めて)自分より勝れた人もまた等しい人も見つからない時
一人で行く(道を求める)ことを決意しなさい。
求道において自分より劣る者を伴侶(とも)にしてはいけないと説いています。

この教えは道(普遍の法)を求めるのは一人でも出来るということに大きな意味があるでしょう。
大切なことは、たとえ今は他の人々の正しい理解が得られなくても心をかためて一人でも歩みなさい、と説かれているのです。

犀(さい)の角のように ただ独り歩め
人は(父母に縁を得て)ただ独りの人間としてこの世に生まれてきます。そしてやがてはただ独りの人間として死んで(この世を去って)行きます。その自覚が説かれています。
さらには求道者にとって独り歩むことの大切(必要)さが強く説かれています。
実に欲望は色とりどりで甘美であり、心に楽しく、種々のかたちで、心を攪(かく)乱する。欲望の対象(欲望を満たすもの)にはこの患(うれ)いのあることを見て、犀(さい)の角のようにただ独り歩め。(50)

これ(欲望の対象)は私にとって災害(害するもの)であり、腫物(はれもの)であり、禍(わざわい)であり、病(やまい)であり、矢(殺傷するもの)であり、恐怖である。諸々の欲望の対象にはこの恐ろしさのあることを見て、犀(さい)の角のようにただ独り歩め。(51)

世の中の遊戯や娯楽や快楽に、満足を感ずることなく、心ひかれることなく、身の装飾を離れて、真実を語り、犀(さい)の角のようにただ独り歩め。(52)

最高の目的を達成するために努力策励(さくれい)し心が怯(ひる)むことなく、行いに怠(おこた)ることなく、堅固な活動をなし、体力と智力とを具(そな)え、犀(さい)の角のようにただ独り歩め。(68)

いつくしみ(慈)と平静(安心)とあわれみ(悲)と解脱(法の悟り)と喜び(安楽)とを時に応じて修め(人々に施し、自ら修め)、世間すべてに背くことなく、犀(さい)の角のようにただ独り歩め。(73)

貪欲(欲のままにむさぼること)と嫌悪(恨み、憎しみ、憤り、怒り)と迷妄(真理の法を知ることなく迷う)とを捨て、結び目を破り、命を失うのを恐れることなく(あらゆる執着を離れ)犀(さい)の角のようにただ独り歩め。(74) 以上 スッタニパータ


この世においては世間の決まりや人間関係の柵(しがらみ)の中に生きています。この教えを、一人自分勝手に生きても良いのだと曲解するのは、間違いを犯す元になりかねません。
世間や人間関係をまったく無視して自分勝手に生きて行くことは困難です。

世間に住みつつも、世間や世俗に流されない生き方、正しい生活(活動)を心がけ、たとえ一人でも法(摂理、真理)に適った生活を貫く覚悟を持つようにと説かれているのです。
この教えは、特に仏道修行者に対して説かれました。

その心の中に法(真理)を得たなら、他のものに左右されない自分自身(独りの人間)としての自覚と自信を持って生きて行くことが大切(必要)なこととして説かれているのです。
 


母も 父も また親族(したしき)も
たとえいかなる たすけをなすとも
正しき心もてなせる さいわいにまされるもの
誰かなしえん
以上 法句経 43

おのれあしきをなさば おのれけがる
おのれあしきをなさざれば おのれ清し
けがれと清浄とは すなわち おのれにあり
いかなるひとも 他の人をば清むるあたわず
以上 法句経 165
これは一人で歩むことに通じます。
自分自身の行いが自分を決めるというのです。
自分の正しい心で行う幸い(善い事)に勝るものはないと説いています。

自分が悪い事をすると自分がけがれ、悪い事をしなければ自分は清いというのです。
けがれと清浄とは自分自身の行いにかかってくるということでしょう。

さらには、どのようなひとも他の人を清めることは出来ないと説かれています。
人に清めてもらうことは出来ない、自分の行いで清めなさいということでしょう。

その身をつつしみ その言葉をつつしみ
その意(おもい)をつつしむ
それらの人こそ おのれを護る 賢者とはいう
以上 法句経 234
自分自身の行いをどのようにすれば良いのでしょう。
仏典の用語には身口意(しんくい)という言葉が使われます。
これは身体での行い、口で話す言葉、心で思う事の3つを意味します。

この3つにおいてつつしみを持つことにより自分を護るようにと説かれています。
ここで特に心で思う事についてはひとまず自分にしかわからないことですからよく注意してみる必要があるでしょう。



無常について

比丘たちよ、色は無常である。無常であるものは苦である。
苦であるものは無我である。無我であるものは「わがもの」ではない。
これは「われ」ではなく、これは「自分そのもの(永久不変の実体)」ではない。
如実に正しい知恵をもって、このようにみるべきである。
以上 相応部経典

3法印
諸行無常 (この世に現象している一切は無常である)
諸法無我 (無常の中に現れている我は真の我ではない)
涅槃寂静 (涅槃「ニルバーナ」は煩悩 [欲望 怒り 妄想 (無知) ] の消えたおだやかで静かな状態である)
4法印
一切皆苦 (四苦八苦に示されるようにこの世の存在一切は苦をともなう)
無常については様々なかたちで説かれています。
こちらでは色(この世で現象している形や形をなすもの)は無常である。
無常であるものは無我である、無我であるものは自分そのものではないとされています。
仏陀(釈迦)は人間(特に肉体人間として地上に現象している人間として)をふくめてこの現象界すべてのものは無常であり、常にうつりかわっているということを、たびたび説いています。

縁起という言葉があります。
この世の存在は因と縁(原因と条件)により起きているという事をあらわします。
そして縁起しているものは無常であり常に移り変わっていて永久不変のものはないとされます。

これはこの世における自分に関する事、地位、名誉、知識、財産、人間関係、その他あらゆることについてこれこそわがものという強い執着をすべきでないということになるでしょう。
それを正しい知恵によって如実にみるべきであるとされています。
しかしそれは自分を失う、ということになるのではなく、その正しい知恵を持ってものごとをみる、自分自身を得るようにと説かれているのです。

あらゆるものは無常であると、般若(真実の知恵)によって観ずるとき、そのとき諸々の苦をはなれる。
これが、すなわち清浄への道である。

あらゆるものは苦であると、般若(知恵)によって観ずるとき、そのとき諸々の苦をはなれる。
これが、すなわち清浄への道である。

あらゆるものは無我であると、般若(知恵)によって観ずるとき、そのとき諸々の苦をはなれる。
これが、すなわち清浄への道である。
以上 法句経
こちらでは般若(はんにゃ)という言葉が使われています。
般若とは真実の知恵をあらわしています。
真実の知恵によってみるとき、苦をはなれることができると説かれています。
あらゆるものは無常である、苦である、無我であるとくり返されます。
その真実を般若によって観ずるときが、諸々の苦をはなれた清浄への道であると説かれています。



法を聞き 法を見るということ

無益の句よりなる その言葉
たとえその数 千ありとも
それを聞き 心の安らぎ(寂静)をえる
意味深き一句こそ はるかに勝る
以上 法句経 100

人もし生きること 百年にならんとも
無上の法を 見ることなくば
無上の法を 見る人の
一日生きるにも およばざるなり
以上 法句経 115
法(ダンマ 普遍の法)を聞くこと見ることについて、それがいかに貴重なことであるか仏陀(釈迦)はたびたび説いています。
それが真の普遍の法(真理)であれば、いつの時代の、どこに住む人にとっても、最も大切なものである、こちらでは無上の法という表現で、この上なく大切なものと説かれています。

法を持する者

多くを説けばとて そのことのかぎりにて
彼は法を持する者にあらず
法を聞く事少なくとも 身にこれを行えば
法をおろそかにせざるがゆえに
法を持する者と言わるべし
以上 法句経 259
多くの法を説いたからといって、法を持する者とはいえないとされています。
法を持する者とは、法を実践する者をあらわします。
法を聞く事、見る事と共に自身で行う事(身口意)が最も大切なことと説かれています。


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