イエス・キリストの教え(思想)

イエス・キリストの教え(思想)


こちらではイエス・キリストの教え(思想)の代表的なものとしておもに山上の説教(垂訓)から見てゆく事とします。


ある日イエスは集まってきた多くの群集を見て山に登った。腰をおろすと弟子たちが近くに寄ってきた。
そこでイエスは教え始めた。
「ただ神により頼む(霊としての貧しさを知る)人々は幸いだ。
天の国はその人たちのものだから。
悲しんでいる人々は幸いだ。
神がその人たちをなぐさめてくださるから。
耐え忍ぶ人々は幸いだ。
神がその人たちに約束の領地をくださるから。
御心にかなう生活に飢えかわいている人々は幸いだ。
神が満たしてくださるから。
あわれみ深い人々は幸いだ。
神のあわれみを受けるから。
心の清い人々は幸いだ。
神を見るから。
平和を実現する人々は幸いだ。
神の子と呼ばれるから。
御心を行なって迫害される人々は幸いだ。
天の国はその人たちのものだから。
わたしのためにののしられ、迫害され、さらに、ありもしないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたたちは幸いだ。
喜びなさい。大いに喜びなさい。
天には大きな報いが、あなたたちを待っているから。
かつての預言者たちも、同じように迫害されたのである」

以上マタイによる福音5章より
天の国について、イエスはたびたび、そこに入る人は少ないと説いています。
多くの人々は楽な広い道の大きな門から滅びに向かっている。
永遠の命の門はせまく、それを見つけてそこから入る人は少ないと説いています。
こちらの説教では、その天の国に入る人々を示しています。


イエスはその弟子たちに、イエスの教えを行うようにと説いています。
「あなたたちの光を人々の前に輝かせなさい。
そうすれば、あなたたちのりっぱな行いを見て、人々はあなたたちの天の父をほめたたえるようになる。」

「律法学者やパリサイ派の人々は、神の掟を守っているのは自分たちだと言い張るけれど、いいですか彼ら以上に正しい事を行わなければ、あなたたちはけっして神の国に入ることはできない」
イエスはその教えを聞いたうえで実際に行うようにと説いています。
神の国(天国)に入る為にはどうすればいいのでしょうか。
イエスは正しい事を行うようにと説いています。
正しい事とは人々が自分たちに都合のいいように作った社会慣習や常識等の事ではありません。
イエスは、当時のユダヤ教の指導者達に対して、聖書の言葉を自分達に都合のいいように解釈してはならないといましめています。
イエスの説く正しい事とは、イエスの説く普遍の真理に則して正しいという意味になるでしょう。
こちらでは、神の掟を守るという表現が使われています。


腹を立ててはならない
「兄弟(家族、仲間、同胞、人々)に腹を立てる者は裁きをうける。
兄弟(人類同胞)をのろったり馬鹿呼ばわりするなら地獄の火に投げ込まれる」

イエスは互いに愛し合うようにと説きました。
人に腹を立てる事(怒り)をいましめています。
イエスは、あわれみ(真の愛)深い心と、あわれみ深い行いを、天の国に入るために大切な(必要な)ものと説いています。
イエスの説いた愛はアガペ(理性の愛、慈悲)とも呼ばれます。
イエスは、自分を愛するように人(兄弟、人類同胞)を愛しなさいと説きました。
この言葉には、真実の愛が表現されています。
自分を愛する事は大切な事なのです。
それは、真理に従って示される愛(真の愛、慈愛)を意味しています。
自分だけを大切に思う自己愛(利己愛)ではありません。
また、この世の命(肉体)だけに強く執着する自己愛でもありません。
自分を真に愛する(大切に思いやる)という事は、人間として自然で、当然のこととして、前提されているのです。

自分がつらく苦しい時には、自分をいたわるでしょう。
悲しい時には、なぐさめるでしょう。
さみしい時には、暖かく励ますでしょう。
傷つき痛みのある時には、優しくいやすでしょう。
うれしい事があった時には、心から喜こぶでしょう。
楽しい時には、心弾ませて笑うでしょう。
もしも、怒った時には、静かにいさめるでしょう。
人は、たとえ自分がどのような状況になっても、
その時、だれ一人思うような愛情をしめしてくれなくても、
自分は、精一杯の愛情を、今現在の自分に注ぐでしょう。

自分自身を真に愛せない人は、様々な事が身に起こるこの地上において、正しく生き抜く事が困難となるでしょう。
まして、天国に入る事は出来ないでしょう。
自分を愛せない人は、真に他の人を愛する事も出来ないでしょう。
イエスは、自分を愛しなさい、
そして、自分を愛するように人を愛しなさいと説きました。
天国に入る(永遠の命を得る)ためにそれが大切(必要)なことであると説いているのです。
神の掟(真理)は、愛を伴って行われるときに成就します。
イエスは、自分のしてほしいと思うことを、人にもしてあげなさい、と表現しています。
その真の愛は、欲望の情愛とは異なります。
一方、人をのろったり、軽蔑したり、侮辱したり、怒ったりする事は、天国へ入ることの反対の行いといえるでしょう。
イエスは強い言葉で、やがて地獄の火に投げ込まれると説いています。


最も重要な掟
「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。
これが最も重要な第一の掟です。
第二も、これと同じように重要です。
自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。
律法全体と預言者の教え(真理)は、この二つに基づいているのです」

以上マタイによる福音22章より(マルコ12章、ルカ10章)
イエスは、この二つの戒め(掟)が、すべての戒め(掟)の中で最も大切なもので、この二つを守る事がすべてを守ることになると言っています。
これは、真の愛が、すべての正しい行い(掟)の基になることを意味しています。

ここにはイエスの教えを知るうえで最も大切なことが示されているのです。
神(創造主)を心から(心、魂、思いを尽くして)愛すること、さらには隣人を自分のように愛すること(真の愛、慈愛)がイエスの教え(真理)の基にあることが説かれているのです。
たとえ、どのように掟を守っても、真の愛がなければ偽善となる事をも表しているのです。
この地上に生きている以上、人間は罪からまったく逃れる(掟を守りきる)事は出来ないでしょう。
イエスは、人の行いの善悪の評価には、表面上の行為や結果より、その人の心(意志、真の愛)が最も重要である、大切(必要)なものであると説いているのです。


姦淫してはならない
「あなたたちも聞いているとおり、『姦淫してはならない』といわれている。
しかし、私は言っておくが、だれでも、みだらな思いで女性を見るなら、すでに心の中では姦淫したことになるのです。
もし、右の目があなたをつまずかせる(情欲をおこさせ、罪を招く)なら、えぐり出して捨てなさい。
身体の一部を失っても、全身が地獄に投げ込まれるよりよほどましです。
またもし、右の手が罪を犯させるなら、切り取って捨てなさい。
身体の一部を失うほうが、地獄に落ちるより、どんなにましでしょう」

目で見る事(見つめる事)、心に思う事(意志)、身体で行う事のすべてに大きな意味があることが説かれています。

この地上に生きている人間には肉体(身体)があります。
人はその身体(肉体)が罪を犯すとき、すでにその心の中で自分自身の意志が働いて(罪を犯して)います。
身体で行った罪はこの地上で処罰等の対象となります。

しかし、イエスはたとえ実際の身体での行動に至らなかったとしても、その心の中で罪を犯すなら、それだけでも、すでに自分自身(意志、真の本人、本性)が罪を犯していると説いているのです。
この時もイエスによって、この世を生きている人間の心の思い(意志)がどれほど大切なものであるかが示されているのです。
イエスは正しい事を行いなさい、と常に説いています。
身体(肉体)で正しい事を行いなさい、そして同時に心の思い(意志)でも正しい事を行い(思い)なさい、と説かれているのです。
地上人間は、即物的な情欲が(自然的、生理的)に起こり得ます。それ自体をとがめているのではないのです。
それは、イエスの「それがあなたをつまづかせるなら、それがあなたに罪を犯させるなら」という言葉から理解が及びます。
人間はたとえ(情欲に関連して)邪な思いが(瞬時的には)起きたとしても、誰も(必ず)大切な真実のこころ(理性、良心)を持っているのです。
その真実のこころ(理性、良心)の自制心は、実際に行動する(つまづき、罪を犯す)事を、未然に止める(防ぐ)力を持っています。
私たち(地上人間)は出来る限り、いざと言う時に(瞬時に)正しく働く自制心(理性、良心)を(常に)磨くことが望まれます。

心での思い(意志)だけならこの地上での処罰等の対象とはなりません。
通常、他の人に知られないので、指摘や非難を受けません。
だからこそ、人はその心を正す(邪な思いを減らす、無くす)自由を常に与えられていると言えるでしょう。
それは自ら(理性、良心)に由らなければ不可能なことなのです。
人は過ちに気付いた時に、自らを悔い改めることが出来るのです。
その可能性をいつでも持っているのです。
その時には、自らの心(理性、良心)で、自らの(エゴ的)心を回心(改心)し、その心を正す必要があるのです。

イエスは、不正な性交渉(邪淫、不倫等)を強く戒めています。
(正しくない、邪な)情欲が起こすその罪がどれほど重いものか、イエスの言葉が端的に示しています。
その強い欲望(執着)を持ち続け犯し続ける事がないようにと説かれているのです。
そして、やがて全身(魂本体、真の本人)が地獄(試練界)に落ちる事がいかに恐ろしいことであるかが激しい表現で表されているのです。


離縁してはならない
「『妻と離縁するものは、離縁状を渡せ』とモーゼの法律ではいわれている。
しかし、私は言っておくが、不法な結婚、不貞(不倫)以外の理由で妻を離縁するものはだれでも、その婦人が再婚した場合、彼女にも、彼女と結婚する相手にも姦淫の罪を犯させる事になるのです」

イエスは、離縁状を渡すことで簡単に妻を離縁していた(この法律こそ最良(完全)なものとしていた)当時の夫側に、それ(真の思いやりがない行為)は真理に則していないと説いたのです。ここでのイエスの言葉は、当時の状況を考慮して理解する事が大切です。
イエスは離縁という事を絶対的に否定していると取る事は出来ません。
不法な結婚という言葉には、結婚を正しく成立せしめない様々な状況を考慮する余地が残されています。

さらにイエスは、不貞(不倫)は離縁の原因ともなるしてはいけない事と説いています。
世の中には、それ不倫(不貞)を軽いこと(自分の自由)の様にさえ考えている人もいます。しかし、次の一点を考えてみても、それがどれ程の重いものに成り得るかが分かるでしょう。
もちろん身体的にも様々の影響は考え得ることですが、何よりもそのパートナー(信じている人)の心(魂、命そのもの)をどれ程傷つける事に成り得るか、簡単に想像(予想)し得るものではないのです。
時には(パートナーの心の状況、条件によっては)その生死にさえも(そして、その魂の在り方にも)重く関わることにも成り得るのです。
したがってイエスは、不倫(不貞)は離縁の原因にもなるしてはいけない事としているのです。
人間はいつでも心を入れ替える(回心、改心)する機会(チャンス)を持つことが出来ます。
そして同じ過ちを繰り返さずに、自らの行いを正して行くことが出来るのです。


誓ってはならない
「『いったん神に立てた誓いは、破ってはならない。必ず果たさなければならない』といわれている。
しかし、私は言っておくが、いっさい誓ってはならない」

イエスは天にかけても、地にかけても、誓ってはいけないといっています。
「自分の髪の毛一本さえ白くも黒くも出来ないのだから、自分の頭にかけても誓ってはならない、ただ『はい、そうします』とか『いいえ、そうしません』とだけ言いなさい。
誓いを立てる事で約束を信じてもらおうとすることは、悪いことである」

イエスは人間の心は変わりやすく(常に変わっている)また、この世のあらゆる事は常に変化していて定まっていない(無常である)ために、誓いを守りきる事は非常に難しいことを説いています。
それは自分の髪の毛一本さえ白くも黒くも出来ないのだからという言葉によく表されています。
地上に生きている人間には、神に誓いを立てられるほどに確かなものも、確かな力も無いという事でしょう。
誓いを立てる事で約束を信じてもらおうとすることは、それ自体が悪いことであると説かれています。
それ(真意、深意)は、何よりも大切な今(現在)を、精一杯に正しく生き抜くことに通じているでしょう。


復讐してはならない
「聖書では『目には目を、歯には歯を』と命じられている。
しかし、私はあえて言っておくが、悪人の暴力に暴力で手向かってはならない。
もし、右の頬を殴られたら、左の頬をも向けてやりなさい。
借金のかたに下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。
1キロ先まで荷物を運ぶように命じられたら、2キロ先までも運んでやりなさい。
求める人には与え、借りにきた人に背を向けてはならない」
以上マタイによる福音5章より
イエスは悪(怒り)に悪(怒り)をもって返してはならないと説いています。
イエスは、すべての人に対して(善人にも悪人にも)思いやり(真の愛)のある行いをしなさいと説いています。
これは、自分を愛するように人を愛しなさいという言葉に通じます。
すべての人に対して(善人に対しても悪人に対しても)、悪を行うのではなく、善(正しい事)を行うようにと説かれているのです。
ここで何よりも大切なことは、相手の行いではなく、自分自身の行い(善行)なのです。
高度に複雑化した現代に生きる私たちは、様々な状況(場面)に応じて、正しい判断力が求められています。
(常に)自分自身の真実のこころ(理性、良心)が、善(正しいこと)であると思える(確信できる)行い(生き方)が望まれます。

上記のような場面においては、迫害に耐えた人には、必ずほうび(報い)が待っていることを、イエスはたびたび説いています。
神の恵みは、耐え忍ぶ人に与えられるとイエスは言っています。
イエスの、左の頬をも向けてやりなさい、上着をも取らせなさい、2キロ先までも運んでやりなさい、という言葉には、必ず良い結果(報い)が得られるのだから確信を持って(その魂においては喜んで)不当な行為(迫害)に耐えなさいという強いメッセージが込められており、様々な面で弱い立場の人々、苦しみに耐えている人々へのなぐさめと励ましを含んだ言葉なのです。

これはイエス自身の生き方が何よりも証明しています。
イエスは、不当な一方的な暴力により、人々の前で侮辱を受け、あざけりを受け、はずかしめられ苦しめられ、十字架上にてこの世(肉体)の命を断たれています。
イエスはその身をもって、ここにある自らの言葉を実践しています。
ゴルゴダ(がいこつ)と呼ばれる場所で十字架につけられ苦しみに耐えながらイエスは次の言葉を残しています。
「お父さん(神様)、彼らをゆるしてやってください。
自分たちが何をしているのか分かっていないのです」

以上ルカによる福音23章より
イエスの、この世的には、力なくみじめな死の結果が、イエスの復活と昇天、使徒、弟子たちの宣教、新約聖書の成立を生み、その後現在まで世界中の、苦しめられ迫害される多くの人々の心に、真実の勇気と生きる力を与え続けているのです。


真に恐るべきは
「脅迫する人々を恐れる必要はないのです。
覆(おお)われているもので現れないものはなく、
隠されているもので知られずに済むものはないからです」

イエスはその弟子たちに迫害する人々を恐れてはならないと言っています。
そして、最後まで耐え忍ぶ者は救われると説いています。
イエスは、どのような行い(善、悪)も、いつか必ず明るみに出ることを説いています。
「体だけは殺せても、魂には指一本ふれることもできない者たちを恐れる必要はないのです。
魂も体も地獄に落とすことのできる方(神様)だけを恐れなさい。
たった一羽の雀でさえ、あなたがたの天の父(神様)が知らないうちに(許しがないうちに)地に落ちることはありません。
あなたがたの髪の毛さえ、一本残らず数えられているのです。
ですから、心配しなくていいのです。
あなたがたは神様にとって、雀たちよりずっと大切な(価値のある)ものではありませんか」

以上マタイによる福音10章より(ルカ12章)
イエスは、体(肉体)は殺せても、魂には触れることも出来ない者たちを、恐れてはならないと言っています。
恐れるのなら魂も体(本質的身体)も(その命そのものを)地獄に落とすことの出来る方(神様)を恐れなさい、と説いています。
髪の毛さえ、一本残らず数えられているとは、人間は神様に対して、真実において、隠し事は出来ないという事をも表しているのです。
ですから、心から正しく生きようと努めている人はむやみに神様を恐れたり心配したりしなくてもいい、人間は神様にとって価値ある大切なものであると説かれているのです。


敵を愛しなさい
「『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
しかし、私は言っておくが、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。それは、あなたたちの天の父の子供となるためである。」

「天の父は善人にも悪人にも太陽の光をそそぎ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせて下さる。
自分を愛してくれる人を愛したからといって、また親しい兄弟(家族、親族、仲間)にあいさつをしたからといってどこか他の人より優れていると言えるだろうか。
あなたたちの天の父が完全であるように、あなたたちも完全な者となりなさい」

以上マタイによる福音5章より
天の父は、善人も悪人も、また正しい人も正しくない人をも愛して下さる、と説かれています。
イエスは天の父の子供となるために(天国に入るために)は、天の父と同じように、すべての人を愛しなさい、と言っています。
ここでの愛は、真の愛(慈悲、慈愛)を意味します。
その愛の一つの行いとして、自分を迫害する者のために祈りなさいと説かれています。

イエスは、本当に善い方完全なのは天の父だけであると言っています。
その言葉は、正しい人(自分を正しいと思う人)には偽善者にならないようにと向けられていたのです。
イエスの生きた当時のパリサイ派指導者(自分たちこそ正しい事をしていると主張していた人々)や、サドカイ派指導者(祭司職など、宗教上の地上の権力を握っていた人々)に対して、真の愛の伴わない形だけの正しい行いや、真の愛の伴わない見せかけの善行を指摘して偽善者と呼んだのです。
しかし、彼らはイエスの言葉(真理)を、正しく理解出来ずに、恨むようになっていったのです。
そういう人々によって、しだいに、イエスをなきもの(死刑)とする、たくらみが持たれていったのです。


イエスは、イエスの話(真理)に耳をかたむけず、地上での利得(権威、財産、名誉等)だけを考えて、平気で神の掟(正しいこと)を破る人々に対しては、厳しい言葉をも用いて、神に属さない人たち(地に属する人たち)と呼んでいます。
「あなたたちは、神聖なものを犬に与えてはいけません。犬は向き直って、あなたたちにかみついてくるでしょう。
真珠を豚に投げてやってはいけません。豚はそれを足で踏みにじるでしょう」

以上マタイによる福音7章より
イエスは、この世の権威、財産、名誉等のみを信じて、天の父(神、真理)を実際には信じていなかった当時の多くの宗教指導者達に対して、強い言葉でその間違いを指摘しました。
その指摘が正しかったからこそ、彼らはイエスを恐れ、イエスを死刑にしようとたくらみ、その口実を見つけようとしました。
しかし、イエスは真理を伝えるという、正しいことをしていたのです。
イエスには死刑にされるような理由はありませんでした。
それで、自分を神の子供と言った、ということが、神を冒涜しているとし、[自分をユダヤ人の王と称した]という理由をこじつけたのです。


当時の指導者達から罪人と呼ばれた貧しい人々(娼婦等)や、取税人(ローマの手先のように見られた)等に対しては、イエスの言葉は、救いの言葉として語られたのです。
人は正しい事をしようとしてもどうしても罪をおかしてしまうこともあるものです。
イエスは弱い人、貧しい人、罪人(その心の中において自分を罪人と自覚している人)の側にいました。
「健康な人に医者(救い主としてのイエス)はいらない、医者が必要なのは病人(罪人)である。」
「わたしは、自分を正しいと思っている人たちのためではなく、罪人を神様に立ち返らせる(招く)ために来たのです」
以上マタイによる福音9章より
イエスの教えはそれまでの聖書(旧約)に対して新約と呼ばれます。
その教えは聞く意志(心)のある人すべてに向けられています。
その教えは永遠の命を求める人に福音と呼ばれます。


イエスが病気の人を治したという話がいくつかあります。
ある時、イエスの服に触りさえすれば治してもらえると信じた女性(12年間出血の止まらない病気で苦しんでいた)が、イエスの服の房に触りました。
その時イエスは振り向いて、彼女を見ながら声をかけました。
「さあ、勇気を出して元気になりなさい。
あなたの信仰があなたを治した(救った)のです」

この時から彼女はよくなった、と記されています。
以上マタイによる福音9章より
イエスのこの言葉には、信仰心がその人を救うという、イエスの福音の大きな意味がこめられています。
イエスは、表面に現れた(形の上の)善悪の評価より、心のありかた(信仰心)が真に大切であると説きました。


施し(善行)をするときは
「人にほめられようと、人前で善行を見せびらかさないよう注意しなさい」
偽善者のするような、人目につくような慈善行為はそれ自身(人々からの賞賛)でもう報いは受けていると説いています。
「人に親切にする時は、右の手のすることを左の手さえ気づかないようにしなさい。
そうすれば、隠れた事もすべて知っておられる天の父が、あなたに報いてくださるのです」

イエスは人知れずした事でも、すべて天の父に知られていると説いています。


祈るときは
「人の見ている大通りや会堂で、さも信心深そうに祈ってみせる偽善者のように祈ってはいけません。
その人々はそれでもう賞賛は受けてしまったのです。
祈るときは、自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられる、隠れた事はどんな小さな事でもご存知の、父なる神に祈りなさい」

イエスは、祈りの一つの形として、ただ一人自分の部屋で隠れて祈りなさい、そうすれば天の父からの報い(むくい)が得られると説いています。
イエスは、人知れず一人で祈ることを大切な事としています。
それは、父なる神と一人の個人(わたし)との直接の関係こそが何を差し置いても優先されるべき大切な関係であることを示しています。
イエスは、天の父は一人一人の隠れた事も、その思いもすべて知っておられると説いています。
一人一人のその思い(思い続けていること)こそが何より大切なこととされるのです。
したがってイエスは、あれもこれもと多くの言葉(長々と様々な事)を言って祈る必要はないとも説いているのです。
天におられる父なる神に、イエス自身が祈るとき「お父さん」と呼びかけました。
神様に呼びかける時、一人で祈るときは「わたしの天のお父さん」と、同胞と共に祈るときは「わたしたちの天のお父さん」と呼びかけることができるでしょう。
どのように祈ったらよいのでしょうか。イエスの言葉があります。
「あなたたちの天の父は、あなたたちに何が必要か、祈る前にすでにご存知なのです。
ですから、こう祈りなさい。

『天におられるわたしのお父さん、
御名(みな)が、あがめられますように。
御国が、来ますように。
御心が、この地上でも行われますように。
わたしに、必要な糧(かて)を今日与えてください。
わたしが自分に負い目のある人をゆるしましたように、わたしの負い目をゆるしてください。
わたしを、誘惑におちいらせず、悪から救い出してください。
アーメン』」
イエスは、第一に天の父の御名(みな)をあがめること(尊いと思うこと)をあげています。
それは、天の父(神)にたいする真実の心の思いを表現しているのです。

第二に、御国について、イエスは、その永遠の命の世界を、神の国とか天国と言っています。それを求める祈りです。

第三に、この地上では、多くの御心に反することが行われているため、御心が行われますようにとの祈りです。
イエスは、この地上に人の子として生まれ、御心(真理)を説くために来たと言っています。

第四は、日々の糧(かて)についての祈りです。
イエスは、今日を生きている人にとって、何よりも今日の食べ物(糧)が大切(必要)であることを祈りにあらわしています。
イエスにとって、食べ物(糧)とは、霊的食べ物(糧)をも意味していました。
それは、天の父の言葉(真理)によって、霊的糧を得て、霊的に生きる(成長する)ことを意味します。
イエスが、神の教えを説き始める前に、荒れ野において悪魔(邪悪な心の象徴)の誘惑を受けた時、次のように申命記8;3(旧約聖書)の言葉を引用しています。
『人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る一つ一つの言葉で真に生きる』

第五は、罪(過ち)のゆるしのための祈りです。
この地上に生きている限り、人は、その時に気づくか気づかないかによらず、数々の負い目(過ち)をおかしてしまいます。
その負い目(過ち)をゆるしてもらうためには、心からの悔い改めをイエスは説いています。
さらには、自分に対して負い目(過ち)のある人をゆるしましたように、と人をゆるすことを前提にした祈りをするようにと説かれているのです。
この世の中においては、人をゆるさないために多くの事が起こります。
人をゆるすことは、だれにとっても非常に困難です。
しかし、イエスは人の過ち(罪)をゆるすことが、自分も過ち(罪)をゆるされるために必要であると言っています。

「もしあなたたちが、自分に対して過ち(罪)を犯した人をゆるすなら、天の父もあなたたちの過ち(罪)をゆるしてくださいます。
しかし、あなたたちが人の過ち(罪)をゆるさないなら、天の父もあなたたちの過ち(罪)をゆるしてくださいません」


第六は、悪におちいらない為の祈りです。
この世の中においては、人間は弱く、様々な誘惑はさけられないとイエスは説いています。
しかし、誘惑は罪(悪)をさそい、わたしたちに過ちを起こさせます。
イエスは、誘惑におちいることのないように、罪(悪)から救い出して下さいと天の父に祈ることを説いています。それは罪(悪)、過ちを自らも避けるという謙虚な心の表明でもあるのです。

アーメンという言葉は当時のユダヤの人々にとっては、天の父に唱える(呼びかける)非常に大切な言葉とされて来ました。
天の父の、その名を呼ぶのに等しい最大の尊厳を持って使われるべき言葉なのです。
旧約聖書の時代から使われていますが、この言葉は神をたたえ呼びかけるように使われる時の言葉なのです。神を賛美する時に使われるのです。
イエスも使っています。
アーメンという言葉は、その音自体が、天の父に呼びかける大切なものとされて来た言葉なのです。
この言葉をその本来の意味において使うことが正しい事と言えるでしょう。
(しかしこの言葉に伝統的な馴染みのない現在の日本人は、この言葉につまづかない為には、ひとまずはこの言葉にあまりこだわりを持たなくても良いのではないかと私は考えています)

こちらでの主の祈りは、正しい信仰の為にかかせない大切(必要)なものである祈りとして、イエスは当時のユダヤの人々に模範となる一つの祈りを示したのです。
イエスは、天の父は隠れたところから見ておられ、隠れた事はどんな事でもご存知であると、たびたび言っています。
祈るときの、その心の中の真の思いが、なにより大切なものといえるでしょう。
イエスは、天の父はすべての人間一人一人の隠れてする祈りも知っておられる、心の中で思う事をもすべて知っておられると説いています。

ですから一面においては、祈りの言葉の一言一句に細かにこだわる必要はないとも言えるでしょう。
その自分自身の心(思念)を正しく持つ事、その心からの誠実な言葉を表明する事がなにより大切な事(祈り)となるでしょう。



富(財産)は天に蓄えなさい
「この地上に富(財産)を蓄えてはいけません。
地上では損なわれたり盗まれたりします。
富は天に蓄えなさい。
そこでは損なわれたり盗まれたりする心配はいりません。
あなたの富(持ち物)のあるところに、あなたの心もあるのです。」
「目が澄んでいれば、あなたの全身(たましい)も輝いているはずです。
しかし、目が悪い考えや欲望でくもっているなら、あなたの全身(たましい)はくらやみの中にいるのです。
そのくらやみはなんと深いことでしょう」

イエスはこの地上ではなく、天にその持ち物を蓄えるようにと説いています。
天に富(財産)を蓄えるとは、どのような行いを言うのでしょう。
一つには、イエスは、あわれみ深い行いをするようにと説いています。
そして人が悪い企てや欲望を持っていると、その人は全身(たましい)が深いくらやみの中にいると説かれているのです。


神様とお金(財産)
「だれも、二人の主人に仕えることはできません。
かならず、一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んずるかのどちらかです。
あなたたちは、神様とお金(財産)の両方に仕えることはできません」

イエスはお金を使う事(利用)を否定してはいません。
お金(財産)に仕えるという表現で、お金(財産)に親しみ、愛する(執着する)ことをいましめています。
神様に仕える人は、同時にお金(財産)に仕えることは出来ないと説かれているのです。


思い悩んではならない
「何を食べようか、何を飲もうかと命のことで、何を着ようかと体のことで心配したり、思い悩んではいけません。
今現に生きているその事のほうが、何を食べるか、何を着るかよりずっと大事です。
空の鳥を見なさい。
種をまいたり、刈り取ったり、倉に納めることもありません。
だが、天の父は鳥を養っておられるでしょう。
あなたたちは、天の父にとって鳥よりもはるかに価値があるのです。
あなたたちのうちだれが、心配したり思い悩んだからといって寿命をわずかでも延ばすことができますか。
なぜ、着物のことで、心配したり思い悩むのですか。
野に咲いている花を見なさい。
どのように育つのですか。
働くことも、つむぐ事もなく、着物の心配などしていないでしょう。
それなのに、あの栄華をきわめたソロモン王でさえ、この花の一つほどにも美しく着飾ってはいませんでした。
今日は咲いていても、明日は枯れて炉に投げ込まれる野の草でさえ、神様はこのように心にかけて、装って下さるのです。
だとしたら、あなたたちのことは、なおさら心にかけて下さるのです。
まったく信仰の薄い人たち。
だから、『何を食べようか』、『何を飲もうか』、『何を着ようか』などと、心配したり、思い悩んだりしてはいけません。
神様を信じない人たちのまねをしてはいけません。
彼らは、このような物がたくさん有ることを誇り、それらの物に心を奪われているのです。
神様は、あなたたちに今必要なものを、よくご存じです。
何よりも、神の国と神の意志(真理)にかなう生活を求めなさい。
そうすれば、ほんとうに必要なものはすべて、神様が与えて下さいます。

明日のことまで心配したり思い悩むのはやめなさい。
今日一日を力いっぱい生きぬきなさい。
その日の苦労は、その日だけでじゅうぶんです」

以上マタイによる福音6章より(ルカ12章)
イエスは、心配したり思い悩んだりしている人々にたいして話しかけました。
食べるものや飲むもの、また着るものの事で心配したり思い悩んだりしてはならないと言います。
天の父はそれらのものが必要なことはよくご存知であり、天の父の心にかなう(正しい)生活をすることで、その人にとって必要なものは、すべて与えられると説いています。
今現在生きているということが、大切な事であると言っています。
様々なことで思い悩む人々に対して、
今現在、今日一日を力いっぱい生き抜くようにと説いています。

多くの物(この世の物質)の事で、心配したり思い悩んだりしてはならないと、イエスは説いています。
さらには、神様を信じない人たちは、それらの物がたくさんある事を誇り、それらの物に心を奪われている、と言っています。
現代人はどうでしょうか、イエス当時の状況より以上に、現在は物があふれ、人々は多くの物に取り巻かれ、多くの物に心を奪われ、次から次と新しい物を追い求め、多くの物に自分の幸せを依存し、多くの物があることを誇ってはいないでしょうか。

そして、人々はそれらの得た物を失う事を恐れて心配し、又は得られない事を思い悩んではいないでしょうか。
イエスはそれらの多くの物を追い求め、誇るよりも、神の意志(真理)にかなう生活を求めなさい、と言っています。
その正しい生活をする事で、その人にとって本当に必要な物は神様が与えて下さる、と説いています。
この世の物質に自分の心を奪われない、イエスの説くその正しい生き方こそが、無用な心配や、恐れや、思い悩みのない、穏やかな幸せな生活と言えるでしょう。


人を裁いてはならない
「人を裁いてはならない。(人のあら捜しはいけない)
自分もそうされないためです」

イエスはたとえを使って説いています。
「どうして自分の目に材木を入れたままで、人の目にある、おがくずほどの小さなごみを気にするのか」
以上マタイによる福音7章より
イエスは、自分の大きな罪(目にある材木)を悔い改めずに、人の小さな罪(目にあるおがくず)を責めては(裁いては)ならないと言っています。
人間は自分自身の事(罪)はよく見えない(気付き難い)ということでしょう。
イエスは、まず自分の目にある材木を取り除き(悔い改め)なさい、と言っています。
そうすればはっきり見える(真理に気付く)ようになって、人の目からおがくずを取り除く(助ける)ことができる、と説いています。


求めなさい
「求めなさい。そうすれば与えられます。
探しなさい。そうすれば見つかります。
門をたたきなさい。そうすれば神が開いてくださる。
だれでも、求める者は与えられ、探す者は見つけ、門をたたく者は開けてもらえるのです」

自ら求めることは、信じる心から生まれます。
信じる心は、正しい祈り(愛と感謝と喜び)から生まれます。
正しい祈り(愛と感謝と喜び)は、素直な心から生まれます。
イエスは自ら求めなさいと言っています。
自ら求める者にこそ神の恵みは与えられるのです。
自ら求める者にこそ神の真理は見つかるのです。
自ら求める者にこそ神の国の門は開かれるのです。
神の国(永遠の命)を得るためには、自ら求めることが大切(必要)な事であると説かれているのです。
「あなたたちも、自分の子供には良い物を与えようと思うのです。
それならなおのこと、あなたたちの天の父は、求める者に良い物を下さらないことがあるでしょうか」

「人にしてほしいと思うことを、あなたたちも人にしてあげなさい。
これこそ律法と預言者(聖書〔旧約〕)の教えです」

以上マタイによる福音7章より
聖書(旧約)の預言者とは、天の父(神)の言葉(真理)を語る人をいいます。
イエス以前の多くの預言者とその教え(真理)をイエスは肯定しています。
「私が来たのは律法〔モーゼの法律等〕や預言者の教えを廃止するためではなく、それを完成し、実現するために来たのです」
以上マタイによる福音5章より
イエスは、神の掟を守る事が天の国に入るために大切(必要)であると説いています。
神の掟を守るとは、様々な面で、人間として真に正しい行いをする事を意味します。
神の掟を守る(真に正しい行いをする)ためには、真の愛(慈悲、慈愛)が必要です。
イエスは、自分がしてほしいと思うことを、そのまま人にもしてあげなさいと説いています。


実によって木を知る
「偽預言者を警戒しなさい。
彼らの結ぶ実で、その正体を見抜くことが出来るのです。
すべて、良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶのです」

以上マタイによる福音7章より(ルカ6章)
イエスは、多くの偽預言者(偽教師)が、必ず現れる、と言っています。
そして、彼らに気をつけるように、ひどい目にあわないように正体を見抜きなさい、と言っています。
彼らの行い(行為、言葉、思い)と結果(結ぶ実)をよく見きわめることにより、その正体(良い、悪い)を見抜くことが出来る(見抜きなさい)と説いています。


お前たちのことは知らない
「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入れるわけではありません。
わたしの天の父(神)の意志を行う者だけが入るのです。
大勢の者がわたしに言うでしょう。
『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、悪霊(悪魔)を追い出し、奇跡を様々行ったではありませんか』
しかし、その時わたしはきっぱりとこう言うでしょう。
『お前たちのことは全然知らない。悪事を働く者は、わたしから離れ去りなさい』」

以上マタイによる福音7章より(ルカ13章25〜27)
イエスは、天の父(神)の意志(真理)を行うようにと言っています。
天の父(神)の意志(真理)は、イエスによってこの世に述べ伝えられました。
イエスは、真理の伴わない見せ掛けの(偽りの)信仰を、真の信仰とはけっして認められないことを説いています。
たとえイエスの名を使って、様々なことを行ったとしても、正しく天の父(神)の意志(真理)に従っていなければ、悪い事とされ、天の国には入れない(閉め出される)と説かれています。


家と土台
「わたしのこれらの言葉を聞いて、その通りに実行する人は皆、岩の上に家を建てる賢い人に似ています。大雨が降り、大水、大風が襲っても倒れません。岩を土台としているからです。
反対に、わたしの言葉を聞いても、無視し、実行しない者は皆、砂の上に家を建てる愚かな人に似ています。大雨、大水、大風が襲いかかると、その家はひどく壊れ、倒れてしまうからです」

以上マタイによる福音7章より(ルカ6章)
イエスは、その言葉(真理)を聞きはしても、実際には実行しない人を砂の上に家を建てる人にたとえています。
イエスの言葉を聞いた上で、実際に実行することが大切(必要)なことであると、説いているのです。
福音書は、イエスの言葉(教え)を聞いた群集が、イエスの教えに目をみはり、非常に驚いたと記しています。
それは、イエスは、他の指導者のようではなく、権威を持つ者のように教えたから、と記されています。
イエスの教えに、真実(真理)だけが持つ、真の権威を感じたからに他ならないでしょう。
真理の教えは実行されてこそ、その真価が表れることを、このたとえを使ってイエスは説いているのです。


弟子(伝道者)の覚悟
「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。
しかし、人の子(メシア、救い主)には、寝るところもない」

イエスが宣教を行っていたこの時期において、真のメシア(キリスト)であるイエスには、この地上の財産は、家はおろか横になって寝る所さえないことを語っています。
真の魂の救済者は、この地上に財産を蓄えるようなことはない事を、さらには、この世のしがらみに執着することのない事を、イエスは自らの生活で示しています。
そして、その弟子たちに対しても、次のようにきっぱりと言い切っているのです。
イエスに弟子になるようにと声をかけられた人が「ごいっしょするのは、父の葬式を出してから(親が亡くなってから)にしたいのですが」と言ったのに対して、次のような言葉でその心がまえと、覚悟の必要を示しています。
「いや、今いっしょに来なさい。
死んだ者たちに、彼らの死者を葬らせなさい。
(死者のことは後にのこった者にまかせなさい)
あなたの務めは、神の国がくることを人々に伝えることなのです」
ここでの死んだ者たちとは、この時点において、イエスの言葉(真理)に耳を傾けることなく、また、聞くには聞いても信じようとしない人たち(霊的死者、非霊的生活者)を意味します。
また、別の人はこう言いました。
「喜んでついて参ります。でもその前に、家族の許しを得てきたいのですが、、、」
すると、イエスは言いました。

「ほんの片時でも、その人のために計画された仕事から目をそらす者は、神の国にふさわしくないのです」

以上ルカによる福音9章より(マタイ8章)
こちらでは、人にとって特に大切な家族さえも、真の弟子(伝道者)となるためのさまたげとしてはならないことが語られているのです。
こちらの言葉は特に弟子(伝道者)に対して語られたのです。
イエスの弟子として、その教えを伝える者となるためには(その仕事のためには)、他のあらゆるものからのさまたげを受けないように(使命から目をそらさないように)と説かれています。


人の口から出てくるもの
イエスの言葉や行いに対して、パリサイ派の人々は、その力は神の霊(聖霊)からではなく悪霊(悪魔)からきていると言って非難をし、イエスをおとしいれようとしました。それに対してイエスは言っています。
「どんなに私を冒涜し、罪を犯そうとゆるされる。
しかし、聖霊に対する冒涜はゆるされない。
聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でもゆるされることがない」

「人の心の思いが、そのまま口から出てくるのです。
良い人の言葉を聞けば、その人の心にすばらしい宝がたくわえられていることがわかるのです。
しかし、悪い人の心の中は悪意でいっぱいです。
言っておきますが、やがてあなた方は、自分の話したくだらない言葉、今まで口にしたむだ口を、一つ一つ釈明しなくてはならないのです。
いま口にする言葉しだいで、あなた方の将来が決まるのです。
自分の言葉によって、正しい者とされるか罪ある者とされるか、そのどちらかになるのです」

以上マタイによる福音12章より(ルカ6章)
イエスは、この地上にイエス(真理の言葉)を信じる人を救うために来たと言っています。
イエスは、イエスに対する冒涜や罪はゆるされると言っています。
この地上に、人の子として生まれたイエスは、イエスに対する人々の罪を責め、イエス自身がその人々を罪におとしめる(罪をゆるさない)というような心(気持ち、悪意)の無いことが語られています。
イエスは、イエス自身についてどこから来て、どこに帰るか知っていると言っています。
イエスの語る言葉は、イエスが言うように聖霊の力によるのです。
したがって、イエスの言葉を侮辱したり冒涜したりすることは、聖霊を冒涜することになるのです。
イエスは聖霊を冒涜することは、この世でも後の世でも決してゆるされることのない罪であると説いています。
このイエスの言葉は、イエスに悪意をもって敵対し、おとしいれようとする人々に対して語られました。
しかしその内容は、この世に生きているすべての人にとって大切な真理が語られているのです。
人はその思いが口から言葉になって出てきます。
イエスは、人はそのむだ口、くだらない言葉の一つ一つについても、すべて責任を問われることになると言っています。
この世の中において、正しく生きるために、人は正しい言葉(真実)を語ることが求められます。
イエスによって、人の話す言葉がいかに大切なものであるかが、この時も強く説かれているのです。




戻るトップペー
ジへもどる

イエスの教え